自己評価が低い人、生きる価値を見出したい人
自分の中に高次な存在がいるとか、内なる神性が宿るという話は、精神世界、スピリチュアルに関心のある人には、半ば常識的なものです。
私の使うマルセイユタロットも、そうした思想のもとに作成されていると考えられます。
しかし、同時に私たちは普通の人間として、肉体的・精神(心理)的に悩み、迷い、苦しみ、また苦痛から逃れ、快楽や安楽などの利己的な欲求をかなえようとする存在でもあります。
いわば低次と高次、その中間の状態などが混在し、それらの葛藤の中に実際の「生」や「現実」があると言えます。
難しいことを考えれば高次の状態に至るわけでもありませんし、かと言って、単純に、自分の気持ちのままに生きるということも、どこまでが通常の状態の欲求から来ているのか、高いレベルの成長につながる求めになっているのか、わからないところもあります。
ですから、あまり低次・高次などの区別をつけ過ぎず、様々な自分がいることを認め、前のブログでも書いたように、それぞれの状況によって、各種モードの自分でもって対応していくというのが、現実的・臨機応変的生き方になると思います。
とは言え、この時代、いくらたくさんのコーチとかセラピストとか、カウンセラーとか、セミナー講師とかの方々が、自己評価を上げること、セルフイメージを高めることの重要さ、その方法を述べているにも関わらず、なかなか自己の価値を十分に認めることのできる人は少ないのではないでしょうか。
悪い言い方をすれば、自己評価が低い人は自己評価の高い人に、ビジネス的に搾取されるところもあるような気がします。
さらに社会全体や世界レベルで考えると、なかなか普通の人が、自分が(特別に)貢献しているなどとは思えにくく、むしろ、生きていることすら価値がない、無駄かもしれないと落ち込むような状況・人間は、結構多いのではないかとも想像します。
一言て言いますと、現実は、自己評価を高められるほどやさしい社会(世界)ではないということです。
もちろん情報や方法次第で、生き方も楽になったり、成功したり、それに伴って自己評価をグンと上げることのできる人もいるでしょう。
よく、社会や人のせいにするな、すべては自分の問題だと言われますが、ある面ではその通りではあるものの、物事は一面たけでは推し量れず(ひとつだけの原因や要因とは言えず)、環境や仕組みのほうが、自分に問題を引き起こさせていると取ることも可能だと思います。
学力やスポーツ、そして経済など、すべてにおいて激しい競争や他者との比較評価に成り立つこの世界では、自己評価を高めたり、自分が役に立っていることを真に感じることなど、至難の業ではないかと思うほどです。
と言っても、現実は現実、社会は社会です。こういう世界であっても、生きていくことを、私たちはおそらく選択して誕生しています。
ということで、たとえ自己評価が低く、生きる価値があるのだろうか?とか、自分が何か役に立っているのだろか?と思っている人がいても、ある考え方をすることで、何とか生きていけるかもしれない方法を、私なりに、簡単に伝えたいと思います。これは、何よりも、自分に言い聞かせているものでもあるのです。
それは自分自身に意味や価値を見出そうとしたり、発見したりしようとせず、生きるプロセスをただ続けるということです。
それでは空しいばかりと思うでしょう。
ここで言う「ただ生きる」というのは、何もしないのではなく、ある目的を持って生きるということです。
それは「真理を追究する」という目的です。ただ、真理と言っても、たぶん、真理などというものは見つからないかもしれませんし、ないのかもしれません。
それでも、違う言い方をすれば、「どうしてこのような世界・システムになっているのか」「なぜ生きる(生きているのか、生きなければならないのか)」ということを、「生」の状態をつつけながら追求していく態度のことを述べています。
必ず答えを出さなくてはならないというものでもありません。たぶん一生かかっても、明確な答えは出ないでしょう。また、よく一般的に言わるような「自分の生きる意味(価値)を考える」というものとも、少しニュアンスか違います。
自分(だけ)の生きる意味を考えるのではなく、社会・世界全体としての生きるシステムについて、どういうことだろうかと思考してみるということです。哲学的と言えば哲学的かもしれません。
そうすると、安易に死ぬわけにもいきませんし、漫然と受動的に生きるのも問題となります。
平たく言えば、自分に深く追求するテーマを持って生きるということで、日々がそのテーマを深め、構築してくプロセスとしての道になるということなのです。それでテーマとして、「自分の生」を考察モデルとし、「人生」と「宇宙システム」みたいなものを設定して考察してみましょうというわけです。
ですから、人に役立つとか、自分に価値があるかないかとなどとは無関係になります。
けれども、ずっと(寿命まで)生きなくては。ある程度の答えを得たり、テーマを深めたりすることができないものです。年齢や経験を重ねることで、こういった考察はさらに進んでいくものでもあります。
ところで、この世界を例えばゲームのような仮想世界だとすれば、ゲームの設定を最大限に活かして自分が楽しむというケースと、もし他者と協力してゲームを楽しむことが目的であれば、そうした共同作業によって、ゲーム設定内の目標を達成していくというやり方もあるでしょう。
一方で、否応なくゲーム参加してしまったとか、ゲームそのものを楽しむ目的ではなく、ゲームの状態はどうかとか、ゲームの出来具合をチェックする側として参加した場合もあるかもしれません。
さらに言えば、非常に高度なゲームとして、自分自身がゲームプレイヤーであることと、ゲームの世界にいること自体を忘却するようなシステムのゲームに自分を入れて、どうやってゲームであることを自覚するか、ゲーム世界から脱出するかを課している、ちょっとアブナイ(笑)ケースで参加していることも、突飛ではありますが考えられます。
上記の場合、もしかして、何かの罰や刑として、そうしたゲームということを忘却させられる世界に放り込まれていることも考えられます。
どうしても、何をやっても、自分に価値が認められないという人は、案外、この最後の方に述べた、忘却ゲームに危険を呈して参加した人か、刑罰的意味や、試験のように送り込まれた人なのかもしれません。
それは自分に価値がないのではなく、このゲーム世界においてのキャラクターになっていることが認められない、あるいは、何か問題がある(という設定となる)ということです。この違いは大きいです。自分は本来価値があるのに、ないと思えるところに来てしまっているわけですから。(苦笑)
それでも、ゲームの外の本来の自分からの声や通信が届くことがあるような気がします。本来の自分もまた何かのことで眠らせされているのかもしれませんが・・・とにかく、ゲームの内と外で響き合う、何かの手段があるように思われるのです。
それが高次の声とか、内的なメッセージとか、神性の力という表現で見られるものではないでしょうか。
ここで、(生きづらく思っている)皆さんに、提案があります。
ブログでも何でもいいので、自分に対して何かメッセージを書いてみてください。
毎日でもいいですし、数日おきとか一週間に一回でもいいです。メッセージは励ましとか、他人に向けた自分の気づきのようなことが望ましいかもしれません。
ネガティブなものとか、愚痴ような人間的なつぶやきというより、自分向けではあっても、誰か近しい人とか、親しい人、そんな人がいないとしても、過去の困っている自分に向けたものの感じで意識して書くとよいです。
そうしておいて、かなり間を空けて、過去書いた自分のメッセージを何気なく読んでみてください。タイトルをつけておくと、タイトルに引き寄せられて、自分の書いたものを過去ログから読むことができやすくなるでしょう。
少なくとも、半年とか一年はやってみて、それくらいのスパンを空けて、過去のメッセージを改めて自分で読んでみます。
すると、たいていは書いた内容は忘れているものの、そのせいもあるのか、不思議と自分の書いたものとは思えない感覚で、まさに自分に向けたメッセージとして深く入ってきます。
これは、未来へ向けた自分へのメッセージとも言えますし、その逆とも言えます。
例えば、今自分が過去の(苦しい時代の)自分をイメージして書いていたとしても、そのメッセージを読んで役立つのが、意外にも未来の自分の場合もあるのです。
ということは、すべてはつながっているのです。つなげているのは、内なる高次の自分と言えます。
このようなことでも、生き続ける可能性を感じさせます。
誰にも神性があります。だからこそ、それが発露する可能性はあるのです。自分が自分を導いたり、教えたり、サポートしたりすることは、マルセイユタロットの「太陽」の絵柄のごとく、ありうる話だと思います。
真理を追究するという話をしましたが、これは言い換えれば、高次の自分と低次の自分との共同作業や接触を、生きながらに増やしていく感じに似ています。
高次の自分に励まされながら、価値が低いと思っている(低次の)自分が、何とか酷なマラソン(笑)を続けていくようなものです。
マラソンは時に大変で、そして、なんでこんなことしているのたろうと思うかもしれませんが、応援してくれている者が、何よりも自分自身なので、続けて行かざるを得ないのです。
ゴールした時、そのもう一人の自分は、とてもねぎらってくれるでしょうし、今回のマラソンレースの本当の意味を教えてくれるかもしれません。
でも、走行中でも、少しずつ走っている自分が、このレースの謎解きをやりながら続けていくと、もう一人の自分もヒントを与えてくれるかもしれません。そして、コース自体が当初の予定から変わって、特別なルートに導かれることも考えられます。
それはこの世界(ゲーム)の出口(ログアウトポイント)なのかもしれないのです。
没頭するゲームプレイヤーではなく、観察者である自分ならば、ゲーム内での自分に価値があるかないかよりも、観察することそのものに意義があることになり、究極的には自分の存在の価値よりも、世界のあり方のほうが重要だということになってきます。
そして、おそらく、世界や宇宙のあり方の探求は、回りまわって、自分の価値の評価につながってくることになるでしょう。
そう、あなたがまだ自分に価値がないと思っているのは、(世界や宇宙に対しての)勉強不足のなせるわざなのです。たぶんね。(笑)
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