シンクロニシティのちょっと変わった考察

シンクロニシティ、つまり必然性があるかのような意味ある偶然、あるいは偶然の中の意味の取れる必然性というような現象で、スピリチュアルに関心のある人は、シンクロと略しつつ、よくそのことを述べられます。

タロットリーディングにおいても、シャッフルなどして、どのカードかわからない状態のものから引き出したカードが、自分の問題や知りたいことを示していると見るのも、シンクロニシティを前提にしないと成り立たないものです。

ただ、人間は関心を抱いたものを情報として集め、さらに言えば、関心のないもの、今特に(生存において)必要性のないものは逆に遮断する傾向もあるため、言ってみれば、偶然のように起こった意味ある事も、自分があることに関心をずっと持っているため、何を見ても(何が起こっても)自身が関連づけをしてしまっているとも考えられ、極端に言えば、関心事関係しか目に入らない状態、もしくは関連せさてしまう精神状態にあるからと、シンクロ現象を分析できるかもしれません。

となると、シンクロニシティは偶然の必然と言うより、すべて自分が意図的に起こしている必然の可能性もあります。

ところで、シンクロニシティ(以下、シンクロとも表現します)が特にテーマとなってくるもののひとつに、シンクロニシティによる答えや進むべき方向性がわかるかどうかというものがあります。

自分が何かの問題状況にあったり、進路・選択に迷いがあったりする時、およそ関連性のないもの同士の出来事なのに、自分の問題に関して回答を得られたような必然的な意味・関係性を見出せる場合があります。

時計やレシート、車のナンバーなどの数字、看板の文字、カフェやレストランでの知らない人の会話の内容、雲の形、虹の現れ、日が急にさしてくる、風が吹くなどの自然現象等が、自分の問いに対して、なぜか答えや道が示されたかのようなシンクロ性を感じることがあるわけです。

これは、何がシンクロしていると感じるかと言えば、結局、タイミングです。

関係ないことでも、タイミングが自分にとって絶妙だった、タイミング的に偶然とは思えないから意味あるものと感じます。

逆に言えば、タイミングがバラバラで、間が悪い時に起こったことは、シンクロとは感じないことが多いと言うことでもあります。

タイミングと言えば、文字通り、時間に関することになりますが、この時間というものがちょっと曲者です。

時間には種類があると言われます。一般的によく取り上げられるのは、皆に等しく流れる時計的・機械的な時間と、一人ひとり個人の心に流れる精神的な時間です。

シンクロだと感じる場合、この時計時間の中に、精神時間が入り込んで、現象を意味あるもののように結び付けているとも考えられます。

別の言い方をすれば、精神時間に私たちが移行している時、シンクロを感じやすいということです。

マルセイユタロットからも言えるのですが、私たちは時計時間で生きる自分と、自分の中の時計、いわば精神の時間で生きる自分との二人がいて、それが時にはせめぎ合ったり、邂逅(クロス・融合)したりしているように思います。

メルヘン的な言い方をあえてするとすれば、精神時間を駆けている自分が、普通の時間で生きているもう一人の自分に会いに来るわけです。(笑) その瞬間、偶然でバラバラであると見られていた物事・現象が、意味あるものとして結びつきます。

精神時間の自分は、時計(通常)時間で生きているあなたの問い(の答え)を検索している存在でもあります。

精神時間は過去→現在→未来という流れとは限らず、その逆であったり、時間がそれぞれ並行したり、時計時間的には伸び縮みしているかのような感じにもなります。いわば、一定の時間の流れや方向性ではないのです。

ゆえに、例えば、未来や過去の出来事にも問いに対して検索がかけられ、それに見合うものを引き寄せてくるような感じになります。

普通の時計時間的な世界では、過去・現在・未来の流れを中心とした論理性、つまりは因果関係目に見えて明確な形でないと、それぞれの関連性、結びつきが理解できない、あるいは必然性があるとは考えられないものです。

しかし、精神の時間では、その縛りから解放され、別の論理性や理由をもって、物事に関連性がもたらされます。

言ってみれば、睡眠中に見る、一見混沌とした「夢」に、何らかの意味を見たり、関連を通したりすることができるというようなことに似ています。

シンクロによる問いの回答が正しいのか、そうでないのかは、はっきりとは言えません。

なぜなら、その正しい・間違いの判断の基準が、どのレベル(法則)のものなのかがはっきりしていないからです。

一般的に言われる正誤の判断は、現実の人の多くの一般的価値観の判断によるものと考えられますが、それは個人として見た場合、絶対基準とは言えません。

あの人にとってよいことも、自分にとっては悪いこと、またその逆もあるのです。つまりは、一般的にはそれは正解と考えられていても、個人で見た場合、正解とは言えず、自分なりの正解は別ということも個人レベルでは普通にあるわけです。

シンクロを見て、回答や進むべき道を知るということでも、それはどちらかと言うと、ニュアンス的には個人的レベルなものです。

そうであるならば、シンクロで感じられる答えというのは、個人の中にあるもので、自分がもともと持っている回答とか進みたい方向性と言えます。

ひねくれた言い方をすれば、本当にしたいこと、やりたいこと、あるいはその逆に辞めたいこと、したくないことなどの本音の世界(気持ち)を、シンクロという現象を理由にして(創り出して)、自ら後押しや理由をつけたがっているとも言えます。

ただ、シンクロで知る答えは、本音とは限らないこともあります。

先述したように、シンクロ現象は、精神時間で生きるもう一人の自分による検索や、別の観点による意味付け(別次元の論理)とも考えられますから、抑圧したり、心の奥にしまっておいたりしている潜在的な気持ち、さらには忘れてしまってはいるものの、実は結構重大な情報ということもあり得ます。

要するに、シンクロからの情報による答えが正しいか正しくないかで見るよりも、シンクロとして感じたことは、普段や常識で思考したり、感じたりしている自分とは別の情報ソースの扱いだったり、いつもとは違う答えの導き方として起こっていたりする出来事として見ればよいのではないかということです。

端的に言えば、精神時間の自分からの現実(時計)時間の自分へのアドバイスみたいなものです。ですから、時計時間で生きているこちらの自分との協議であってもいいのです。

ただ、向こう側の自分は、時空を超えた情報世界にいますし、自分の内側をよく知る存在です(実はややこしいですが、自分の真の外側を知る者とも言えます)。

ですから、シンクロと思える情報や感じは、結構深いところを突いていたり、的を射ていたりする場合が多いのです。スピリチュアルな合理性を持つと言ってもよいでしょうか。

ただ、自分の通常意識が関心を持っているから、そのように見えてきたという、単なる意識の特定事項のフォーカスによって、あたかもシンクロのように見えるものとの違いはあると思います。

やはり、その最大の違いは、シンクロの訪れるタイミングであり、ずっと注目していたからやはり現れたというより、むしろ関心事から意識をずらしたり、当の出来事から離れたりしている時に、突如飛び込んでくるものや、あとあとで、意識の上に、まるで一本の線が次々と結ばれていくかのように、バラバラで別々のこと同士がすべて関連づけられて、「ある種の型」とか「象徴的なメッセージ」が形成されてくるのは、シンクロ現象だと言えます。

とにかくも、絶妙なタイミングで起こるものに、これまで述べてきた自分の中の二人の出会いがあると言えます。

マルセイユタロットで言えば、「運命の輪」の回転で象徴され、ふたつの別の「運命の輪」がまさにシンクロ・同調して一致した時、あなたに偶然のような、意味のある必然性が起こるのです。

シンクロで回答を得ることを求めたり(シンクロしたことが正解と思ったり)、必要以上に特別な意味を持たせたりするのではなく、意識上の違いをよく認識し、むしろバランス修正や、統合の視点で見ていくと、シンクロに振り回されることも少なくなるでしょう。

一般の人は、もっとシンクロに意味を見たほうが、特に情緒的世界が広がりますし、逆に、スピリチュアルに傾倒し過ぎている人は、自分の意識が起こしていること(同じように意味付けしやすい心のパターンにはまっていたり、洗脳されたりしている恐れもあります)だというように、冷静に見ることも必要かもしれません。

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