正義と悪魔 罪悪感
マルセイユタロットの「正義」のカードと「悪魔」のカードでは、まったくの正反対の意味のように思いますが、この両者は、ある心理的な観点からすると、関連性を持って見ることができます。
それは罪悪感にまつわることです。
罪悪感がない人、持ったことのない人は、中にはいるかもしれませんが、普通は、皆さん、何らかのことで抱いたことはあると思います。
それはまさに文字通り、「悪いこと、罪だと感じる感覚」ですので、悪を断じたり、悪いと思うことを自分で認めたり(反省したり)することにもつながりますから、決してダメなことではないでしょう。むしろ人間の成長のためには、よいことなのかもしれません。
しかし何事もバランスであり、歪(ひずみ)をもった罪悪感、本当は持たなくてもよい過剰なる罪悪感であるのなら、それはやはり問題となります。
そもそも「悪」や「悪いこと」と思うには、その反対の正しいこと、正義という基準・価値観がないと生まれません。
ということは、自分にとっての悪は、自分にとっての正義の反対であり、その逆(自分にとっての正義の反対が自分の思う悪)もまた真なりです。
やっかいなことに、個人の場合は、そのふたつの線引き、価値基準が人によって違うことです。
国家的・社会的なものは、一応、明文化された法律・規則というものがありますから、それに反することはたいてい悪(というよりルール違反ですが)になり、順守しているほうは正しいとなります。それが個人的感情として納得するかどうかは別としても、あくまで公式ルールなので、従うしかないわけです。
ここ(はっきりとした客観的規則があるもの)はタロット風に言うのなら、4組(四大元素)の剣(風)の世界であり、杯(水)、つまり感情によってゆらめいても、線引きは可能だということになります。
しかしながら、個人の場合は自分の中に法律があるようなもので、しかもそれは明文化されていませんし、主観ですから、ずっと同じ基準で固定されるわけでもなくも流動的です。つまりは、正義も悪も人によって異なり、あやふやで、感情や気分によっても左右されます。
とはいえ今の自分、個人として、なにがしかの善悪、正義と悪の基準を持っているのは確かです。そして、その内なる自分の法律に従い、自らを、あるいは他人や物事を裁こうとします。いわば、誰もが内なる法律の裁判官なのです。
そこで罪悪感です。
罪悪感は、このように、自分の内的な価値基準、内なる法律のようなもので、自分では正しくないと思った(裁いた)こと(悪、悪いと思ったこと)に、刑罰を与えようとします。それが、自分にとっての心理的なバランス調整なのです。(「正義」のカードに、剣と天秤があるのも、極めて象徴的です)
これが自分に向かう場合は、自己を罰することになりますから、いわば大きな意味での自傷行為、自罰行為を成すことがあります。
これは自分に対する罰を自分が行っている(執行している)ようなものです。
例えば、恋愛や人間関係でわざと気まずくしたり、よい関係を壊そうとしたり、仕事では大事なところで失敗したり、無理な案件や内容を自分に課そうとしたり、残業など肉体を酷使したりします。
かなりのパターンであるのは、神経か肉体を痛めさせるというもの(罰)です。つまりは何らかの病にかかる、あるいは病気のような状態を呈するのです。
問題は、この罪悪感から来る自罰行為を、自分の表面的な意識は自分がやっているとまったく思っていないことがあるのです。
人生のシーンで、何かうまく行かない、目標や望みが達成できない、心や体が何か調子悪いというようなことに、こうした罪悪感が関係し、自罰行為のシステムが潜在的に働いている場合があり、それが自分ではわからないというケースが結構あります。
これは、カウンセリング、心理的なことを含む相談やセッション、リーディング、セラピーの過程で判明することがあるので、何となく心当たりがある人は人に見てもらうのもよいでしょう。
一方、これが自分ではなく、他人に向かう場合があります。自分の罪悪感を外に押し付けることで自分の責任逃れや、罪悪感から解放されたいという行為です。
この場合は、他人への嫌悪感(結局、投影に近いことですが)とか、攻撃、批判という形になります。
これとは少し異質なのですが、タロットの「悪魔」と「正義」の並びで浮かんでくることは、罪悪感とは逆の、自分の正しさを保証(意味的には保障にもなります)してくれる人を求めて、悪魔のような強い人、カリスマ的な人の下につながれに行く、つまりは依存するというパターンもあります。
場合によっては罪悪感の裏返しの正義(悪いこととは思っていても、自分は悪くないと思いたいがために、開き直るがごとく、他人を利用して自分が正義であることを守るもの)のために、悪魔的な、一般に影響力の強い人とつながろうとすることもあります。
さらいえば、「悪魔」の下に入った人たちは、傷をなめ合うかのように、自分(たち)は悪くない、正しいんだと思い込んで集団で安心するケースもあります。
ただ、言っておくと、誰しも大なり小なり、この「正義」と「悪魔」との、罪悪感と正しさ(自分は悪くないこと)の調整はやっています。小さいことなら、それこそ無数にあるのではないでしょうか。
そうして、私たちは心のバランスを図っているとも言えます。
しかしながら、自分の内的な法律があまりにも厳しくて、自分を縛り過ぎ、いつも自罰行為をしたり、他人へ批判的になったりしていては、自分で牢獄の中に入っているようなものてす。いわば、自分の法律によって世界をとても小さく、窮屈なものにしてしまっているのです。
しかも、自罰、自傷をしていると、自分にとってよいわけがありませんし、実害が自分だけではなく、他人にもかかってくることがあります。
先にも述べたように、公のもの、社会的に明文化されたルール、法律は変えることは難しく(変えることはできますが)、公共の利益・福祉、皆の生活のためには、従うのは当然のことです。それだけにはっきりしていて、誰にとっても明確で悩むことは少ないでしょう。
けれども、個人の内的なものは、不安定でもあり、その正義と悪、善悪の線引きも可変的です。そのため、悩みや葛藤も発生します。
それでも、一生従わなくてはならないことはなく、自らがどうとでもすることができるのです。法律を作るのはあなた自身であり、裁くのもあなたなのですから。
罪悪感で自分を縛る人は、タロットでいえば、もっと「悪魔」と仲良くなること(エゴ、自分が自分であることを受容すること)であり、その反対の、あまりに緩すぎる人は、「正義」を思う必要があります。
罪悪感は、宗教的なこと、育った家庭教育の中から生まれていることもあります。一度、本当にそれは自分にとって悪いことなのかどうか、冷静に、いろいろな経験と知識を得た今の自分から検証してみる必要はあります。
同時に、この自分の思う正義、正しいことというのは、どのレベルで言っているのか、ということも考えるとよいでしょう。
よく勘違いされますが、正義や悪は本来ない(人が決めている)のだから、何をやってもいいのだ、自由だという人がいますが、レベルや次元、階層別に、きちんとルールは存在します。
確かに次元が上がれば、その下の善悪、正義と悪はどちらでもないような観点になるでしょうが、上の次元においても、下とは違うものであっても、それなりに善悪はあるはずです。ここは難しいところで、下と上の階層では、二元的なものがまったく逆に入れ替わるようなこともあるのです。
ですから。あるレベルからすると、それは悪いものだよと言われても、また別のレベルでは、必要な良いもの、正義という場合もあるわけですから、一概には決められないと言えます。
言い換えれば、レベルの高い人が言うことは、あなたにとって(あなたの今感じている次元やレベルにおいて)必ずしも、正しいとは限らないということです。
タロットの「正義「と「悪魔」、正反対のようですが、なかなか両者をともに考察していくと、面白いことが見えてくるものです。
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