ひもつきのカード
マルセイユタロットの大アルカナで、ロープやひもが描かれているカードがあります。
どれが、ひも・ロープなのかは、様々な見方はあると思いますが、一応、目立って明らかにひも・ロープ(の描写があるもの)だと考えられるのが、次の三枚ではないでしょうか。
●「正義」
●「吊るし」(一般には吊るされ人などと呼称されるカード)
●「悪魔」
これらのひもには、それぞれ固有の意味があるものと推測されますが、この三枚のひも・ロープ(以降、「ひも」と書きます)を「ひも類」とひとまとめにしつつ、同時に、各々の「ひも」の違いを見ると、面白い考察ができます。
そのひとつとして、「ひも」を「私たちを縛るもの」の例えとして見て、そのテーマで書いてみます。ただし、全部、意味とか象徴性を詳しくはあえて書きません。読んでいる皆さま自身にも、考えてもらいたいためです。
では、三枚のひもについて、その観点で見て行きましょう。
まず「正義」です。「正義」のカードでは裁判官のような者が、首に「ひも」をかけています。
次に、「吊るし」
このカードでは、「ひも」は吊り下がった逆さまの人の足にくくりつけられている感じです。
そして、「悪魔」のカードでは、悪魔(厳密には悪魔が載っている台のようなもの)に人間とおぼしき者が、「ひも」によってつなげられています。
どの「ひも」も、そんなキツそうではないので、「縛る」というテーマで考えることは適当ではないのかもしれません。しかし、キツさ・緩さに関係なく、「ひも」である以上、縛っていることも確かです。
このうち、縛っている(縛られている)ことを自覚しているものと、そうではないものに分けてみると、「正義」と「吊るし」は自覚があり、「悪魔」カードの悪魔自身は自覚しているものの、つながれている二人の人物は自覚していないと想像されます。
いや、もしかして、「悪魔」のカードにいる人物たちも、つながれているのは自覚しているのかもしれません。
普通、ひもで縛られるというのは苦痛であったり、自由を奪われたりして、よいものとは思えない状態です。
それでも、たまに縛られることがうれしい、心地よいという人もいます。いわゆるマゾ的な人ではありますが、もっと広い意味でとらえていくと、つながれていることに安心感を得ている人や状態とも言えます。
縛られることがよい、そんなことってあり得るのかと思うかもですが、例えば、会社につながれることで、給料が安定するのなら、そのほうがよいという人もいますし、自分が尊敬したり、すごいと思っていたりる人、その仲間やグループの集団につなげられているのは、安心だと思う人もいるでしょう。
一方、「正義」のひもはこれは「悪魔」とは逆で、もしかすると見た感じ、無自覚である可能性もあります。
裁判官として考えるのなら、裁判官としての一種の資格や立場を表す「ひも」なのかもしれませんが、裁判のルールを作ったり、そもそも裁判というその形式、行為自体を統括し、演出するもの(行わさせているもの)が、裁判官の自覚・無自覚に関わらず、ひもを結わえている(縛っているもの)とすると、この裁判官とひもが、それ(裁判すること自体)を示す様式や制服の一部になっているのではと推察されます。
言ってみれば、「ひも」そのものが権威や力を象徴し、自他ともに縛るものとして、まさに象徴としての見た目の効果もあるということです。
さて、「吊るし」ではどうでしょうか。
「吊るし」のひもは、一見、とてもキツいように見えます。逆さまの人を縛っているのですから、それは強烈なものではないかと想像してしまいますが、「吊るし」の人物をよく観察すると、苦しそうなどころか、笑みを浮かべているようにも見えます。
ということは、案外、この「ひも」は緩いのかもしれません。でも、足をひっかけているだけのようにも「吊るし」の図像からは見えますので、「ひも」が緩いとすると、物理的な力で「ひも」と人物がつながれているわけではないということがわかります。
いずれにしても、「吊るし」の人物は、「ひも」によって縛られていることは嫌ではなさそうで、少なくとも早く解放されたい、逃れたいと思ってはいないように感じます。
ということは、あえてこのひもでつながれる状態を望んているのか、何か意図があって、この状態にしていることが予想されます。
つながれていることが苦痛ではないということでは、三つのカードともに共通していますが、特に、「悪魔」と「吊るし」は、縛られている当人は楽しそうにさえ見えます。
「吊るし」が「悪魔」の「ひも」と違うのは、つなげている(縛っている)ことを見ているほかの存在(「悪魔」のカードでは、まさしく悪魔)がいないことと(つまり「ひも」と、それにつながっている者という関係だけが強調されている)、当の人物が逆さまであるということです。
また、「吊るし」は絵柄全体からも、何か囲まれている感が強いです。すると、「ひも」と合わさって、牢獄や、何か、逆さ吊りの刑を受けているようにも見えて、「ひも」が拷問用具にもなってきますが、先述したように、当人は気楽な感じさえします。
ここから考えると、やはり、「吊るし」の人物自身が望む意図的な縛り、あるいは、見た目とはまったく違う、「ひも」の機能や状態があると見て取れます。このような変わったことをする理由があるわけです。
「吊るし」と「悪魔」のひもでつながれた人物の共通点として、後手にしているというのがあります。
ここにもし、手を縛っている別のものがあるとすれば、隠された「ひも」があることもイメージできます。それは手錠のようなもので、拘束具となっている可能性はありますが、「吊るし」のカードでは特に、イリュージョン的ショーみたいに、縄抜けをして楽しませている(楽しんでいる)かもしれません。(笑)
「ひも」は、自分で縛ることもできますし、他者から縛られることもあります。「悪魔」の項目で述べたように、縛られることがよい場合もあると同時に、やはりそれは人を拘束し、自由を奪い、苦痛や制限を与えるものにもなります。
さらに、「ひも」がないと、例えば、高所の作業などては危険でもありますし、モノを運ぶ時にも縛らないと中身が出てしまうおそれがあります。ということでは、「ひも」によって便利になったり、安全になったり、団結・関係性を強めたりすることもあるわけです。
人は基本、縛られることを嫌いますが、場合によっては、縛られる期間・状態を必要とする時があります。
それから、「ひも」を別の意味にすると、自分で稼がない男性のたとえでよく言われるように、いわゆる「誰かのヒモとして暮らしている」みたいに、ぶら下がるもの、依存するもの、すがるもの、余分なものの象徴の場合もあります。
こうして、「ひも」を見ていくと、それぞれ三枚のカードのひもの意味、そこからくみ取れる私たちの自由や縛りとの関係性が見えてきます。
すると、この三枚のうちのどれか、あるいは、二枚の組み合わせなどによって、どういう状態の「ひも」が必要なのか、望ましいのか、リーディングとして活かすこともできます。
ひもつき(笑)のカードは、自分自身を見つめる意味でも、とても興味深いと思います。
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