「太陽」のカードに思う二人

マルセイユタロットの「太陽」のカードを見ていて思うことがあります。

私たちは誰に会いに、この世に来ているのか、ということです。

「太陽」のカードには、二人、手を取り合うかのような人物たちが描かれています。

心理的な意味や、スピリチュアル的な意味で見ると、これはもう一人の自分との融合・統合を果たしていると見ることができます。

この「もう一人の自分」というのには、いろいろな考え方があるでしょうが、ともかく、もう一人の統合すべき自分がいるわけですから、それはすなわち、私たちという人間には、見失っているもう一人の自分、あるいは、分裂(分離)した別の自分がいることになります。

詳しくは言いませんが、大アルカナの数の増加ごとに、ある種の成長や完成の段階を示していると取るマルセイユタロットの考え方を入れるとすれば(「太陽」の数19は、21の「世界」のカードという最後のほうに近い)、私たちの多く(完成していない多くの人間たち)は、本当の自分でははなく、片割れ、半分の自分で生きていることになります。

ですから、マルセイユタロット的に言えば、最初の問いに答えるとすれば、それは「もう一人の自分に会いに来た、探しに来た」と言ってもいいのかもしれません。

または、もともと分離していない状態であるものの、この現実の世界で生まれると同時に、意識・認識において割かれた(分かれた)ようになっていると言うこともできます。

ですから、実は、もう一人の自分を探しにこの世に来ているのではなく、あえてもう一人を置いて来て(あの世に置いて来ているのか、この世のどこかに隠されているのかわかりませんが)、「半自分」のままの経験をするのが目的という可能性もあります。

いや、これ(体験すること)を目的とするのか、忘却させられている仕組みに囚われている(体験ではなく堕落であり、真の気づきに回復していくことが目的)と見るのかで、また世界観も変わるでしょう。

実はグノーシス(自身の中に神性や完全性の認識していく)思想は、後者の考え方に立っています。ただ、グノーシスを深く見ていくと、前者・後者どちらでもあるということも感じてきますが。

さて、ここで、観点を変えまして、「太陽」の二人を片方を、もう一人の自分ではなく、すごく親しい人(親しくなる人)、自分にとって特別な出会いと関係の人と見てみるとどうでしょうか。

そうしますと、具体的には、家族やパートナーということもあるかもしれませんし、人生で一番印象の残る特別感のある恋人、あるいは、まさに親友と呼べる人ということもあるでしょう。

ロマンチックに言えば、ソウルメイトとか魂の伴侶、ツインソウルの一人という人もいるかもしれません。

いずれにしても、それはこの世界では、たとえ自分の分身のように感じてはいても、自分とは別の人間、「他人」として現れる人です。だから、その人なりの個性を持ち、自分とまったく同じというわけではありません。性別が違ったり、年齢が違ったり、性格や好み、そして当然ながら両親や育ってきた環境も違うはずです。

それでも、自分の人生において特別な人だと感じ、一(ではないかもしれませんが、それくらいの感覚)の人と思える、何か引きつけ合うもの、関係性を持っています。

それを一言で「縁」と言ってしまえばそれまででしょうが、そこにはほかの人とは違う、何かスペシャリティーがあるわけです。

ということは、出会いの縁はまったくの偶然ではなく、この世で、その人に会うために来ているということも考えられなくはないです。

※逆(相手も自分に会うために来たということ)もまたしかりのようですが、そうとも言い切れません。相手側がどう思うのかは、また別の話でもあるからです。まあしかし、たいていの場合は、相手側もそう感じることでしょう。

だからと言って、全員がそういう相手に出会う(出会える)ということではないようにも思います。もし、輪廻転生説を取り入れるとするならば、今生では、そういう選択のない人生なのかもしれないからです。

そして、そのような特別な相手と出会う人生というのは、それ相応の意味があると見て、相手や関係性からの学びが必ずあるのだと考えることができます。

それは甘美な思いだけではないでしょう。あまりにも特別であるだけに、もしかすると、別れたり、誤解があったり、争いがもし二人の間に生じたりすれば、それだけショックも大きいことになります。

つまり、分離と統合の感覚が、このような特別な関係においては、強烈な体験となって現れるということです。

それに耐えられるかどうかも試されるでしょうし、俯瞰してこうした関係性からの学びを見ると、結局、「太陽」のカードのテーマに見える「統合」を、自分自身に深く認識させるためのものである気がします。

この統合というのは、相手との統合だけを意味するのではなく、全体との統合、つまりは宇宙への回帰、一体感のようなものも示します。

愛しい人、特別に親しい人との共有体験は至福でしょうが、逆に分離、別れ、喪失はものすごい苦しみでもあります。だからこそ、最終的には、その愛しい人(のみ)を超えて、人類全体の統合へと、自己の(統合的)境地は行き着いていくのではないかと思います。

もちろん、それには並大抵のことでは難しいかもしれませんが。

一方で、幸いにして、愛しい人と別れずに済む人は、個性の違う二人が共有し合う愛の響きを、ほかの人に与えていく、シェアしていく役割があるのかもしれません。

人は死ぬと魂になり、亡くなってしまった人や別れた人でも、魂レベルで再会することができるという説があります。ただ、その時に現世での個性を持ったままかどうかはわかりません。

ところで、アニメーションで「伝説巨神イデオン」という、それこそ伝説級の(笑)アニメがあります。あのガンダムの富野氏の手によるものです。

このアニメでは、もともと同種であった人間が、異星人同士になって争い、また同じ星同士の人間でもいがみ合い、憎悪と争いを起こしてしまうという悲惨な話なのですが、最終的には巨大なある力で何もかも滅ぼされ、皆、魂だけの存在になった時、本当に分かり合えるという(救い、救済の)描写があります。

私は、このようなことが「死」とともにあるのではないかと感じます。

ましてや、生前、交流し、愛し合った者同士(それは恋人だけの話ではなく家族や友人の愛など、様々なものを指します)ならば、もっと確実ではないでしょうか。(死後分かり合える、出会える)

ですから、特別に親しい(愛しい)関係になる人と出会えることを、この世での喜びとして深く味わい、またたとえ何かのことで別離してしてしまうようなことがあっても、きっと別の世(死後の世界や、別の次元の世界)で、もっとわかりあえる形で再会できるかもしれませんので、そちらの喜びも待っていると思うと、「太陽」のカードに感謝や、二重の歓喜のような、不思議な感じを覚えるのではないかと思います。

そして、その特別な人は、やはりあなたを救いに来ているわけで、最終的には、もう一人の自分の別の姿だったと気づくのかもしれません。

出会いは嬉しく、別れはつらいものですが、この世とあの世、この次元の世界と別の次元の世界を想定すると、こちらの世界では分離していることが普通で、両方の世界でもって初めて、統合・完全になるのがわかり、この世での親しい人との関係を通して、現実感覚や肉体次元を超える時、もうひとつの世界に架け橋する可能性を見ることができるのだと思います。

そのことが霊性回復にもつながり、月並みな言葉ですが、愛は世界(自分)を救うという意味合いになってくるものと考えられます。

純粋に自分の中にいる、もう一人の自分を探す旅をしてもよいですし、自分とは違う人であっても、「太陽」のような感覚を持てる人を見つけ、親しく関係していくことで、スピリチュアルな意味で自己を回復することができるかもしれませんので、その時その時、それぞれの人生において、自分に合った道を選択するとよいのではないかと思います。

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