「太陽」と「正義」 共感と分離

先月、記事で話題にしたカードたちが、たまたま二枚、並んで私の目に飛び込んできました。

それは「太陽」と「正義」です。

偶然ではありましたが、この二枚から、導けることがありますので書いてみたいと思います。

それは、共感と分離をテーマとしつつ、人間関係において、もっと楽にする方法というものです。

さて、マルセイユタロットの「太陽」の絵柄からして、共感的なことは容易に想像できます。

誰かと気持ちを分かち合い、共感し合うことは、人生において有意義なことであるのは、皆さんもわかると思います。

人間には感情があり、いわゆる喜怒哀楽をもって、様々なシーンに感情を思い巡らせます。

これは、自分以外の相手がいるから感情も大きく揺れ、人を相手にすることで、気持ちも変わってくることになります。

感情は、さきほど述べたように喜怒哀楽という四つの感情に分けられますが、さらに大きな括りで言えば、ネガティブなものとポジティブなものに分けられるでしょう。

そして、他人がいることでそれらの幅が大きくなる(振り回される、振り幅が大きくなる)反面、他人がいることで、その揺れを逆方向に持っていくこともできます。

気持ちに共感し、分かち合うことができれば、ポジティブな感情は増幅させることができますし、反対に、ネガティブなことは慰められて、小さくすることもできるということです。

これが、反目しあう人との間では、ネガティブが増え(というより発生させられる原因にもなる)、ポジティブなものは縮小させられます。(笑)

人間はそう強くありません。中には、孤独を愛し、誰とも感情的に交流させず、自分の気持ちを一人でコントロールしてしまう人もいるでしょうが、普通の人は、なかなかそうは行きません。

ですから、ここはやはり仲間とか友人とか、気持ちを吐露したり、シェアしあえたりする人を持っておくことが、お互いによいことだと思います。

それは「太陽」が示すように、多くの人でなくてもよく、自分以外の誰かひとりが、自分の気持ちをわかってくれれば、人は人生に絶望することがなく、むしろ希望を持って、楽しくさえ生きられるのではないかと思います。

一人でもいいと言いましたが、できれば、自分の興味や関心、趣味、勉学、仕事ごとに気持ちを述べ合える人がいればいいですね。

さて、一方で、マルセイユタロットの「正義」は、人との関係においての「分離」について見ることができます。

気持ちを分かち合う人の存在が、自分の人生、特に感情の喜びの増大、悲しみやつらさの鎮静化、浄化などに作用して、人生に希望を見出させ、楽しさも多くなるのではないかと言いましたが、人間関係においては、逆に、切り離したほうがいい場合も少なくありません。

数年前に、アドラー心理学の本で、「嫌われる勇気」シリーズが流行りました。

個人的には、アドラー心理学の原因論ではなく、目的論一辺倒のトラウマ否定などについては、疑問がないわけではないのですが、それはともかく、あの本で一番良かったと私が思うのは、「自分と他者の課題の分離」という点に言及したことです。

平たく言えば、「人は人、自分は自分」と思うということで、要するに、自分と他者の行為と責任(可能範囲)を混同しない、きちんと切り分けて考えることです。

人にこうしてほしい、ああなってほしい、自分に対してこのように思ってほしい、行動してほしいと思い悩んだところで、人はあなたの奴隷でもありませんし、個性と自由意志を持ちますから、これは自分として完全にコントロールできる類のものではありません。

もちろん、人間ですから、最初のほうで述べたように、他人と関係することで、人は感情が揺れ動きます。(感情を発生させる)

それを止めることはできません。(つまりその瞬間に発生する感情を止めたり、コントロールしたりすることはできない)

しかし、最初から人は人、自分は自分だと、人と自分を分離させていれば、前もっての手立てですから、感情も発生しにくく、したとしても、大きく揺れ動くことは少なくなります。

分離すると言うと、精神世界やスピリチュアルなことに関心のある人には、その言葉自体抵抗を示す人もいます。愛をもって接すれば、理解しあえるとか、そもそも「分ける」ということが間違いであると言われる人もいます。

神や宇宙という大きな次元、ひとつという状態ではそうかもしれませんが、しかしそれは、レベルや階層というものを無視した考えでもあります。

人間の肉体や現実認識の階層レベルにおいては、分離して個性を持つのが常態であるので、当然、そのレベルにおいては分離した考えも必要になってきます。言い方を換えれば、個性を認める、お互いを自立した存在として確認するということです。

従って、他人や相手ができる範囲、請け負ったり、しなくてはならなかったりする責任というものと、自分のそれとでは当然違ってきますし、区別することが求められます。

自分が他人のために役立てることもありますが、自分ができる範囲は限れており、その人の代わりになってやれることと、やれないことの切り分けが必要です。

例えば、相手が食べたいというものを、代わりに買い物はできても、買ってきたものを相手の代わりに食べることはできず、当たり前ですが、自分が食べても相手は満足しないですし、相手のお腹も膨れません。(笑)

いわゆるお節介や介入をし過ぎるあまり、相手の自立を阻害したり、依存、時には悪意を助長したりすることもありますし、自分ではコントロールできないのに、相手の気持ちや行動を何とか(自分の思うように)したいと思い悩んで、多大なエネルギー浪費と悩みを抱えることになっている人がいます。

面白いことに、「正義」のカードは、マルセイユタロットの秘伝的な絵図の考えからすれば、霊的な次元の入り口に位置するものとされ、つまり、霊的向上には、「正義」の象徴性がまずは大事だと見ることができ、つまりは区別すること、責任応分での分離という概念も重要なのだとわかります。

そうであるのならば、愛の押しつけのようなことで、自分と相手を無理矢理融合させよう、理解しよう、協力し合おうというのも、まずいこともあるのです。

スピリチュアル的にも、お互いの個の自立が確立してからの統合への道筋があると考えられ、レベルの低い段階での共有・統合の観念は、むしろ癒着や依存関係と誤解されているところがあり、自分と相手の責任もしっかり切り分けられない、子供の状態であると言えます。

自分がやれないことはきっぱりと断ることであり、また、余計に相手に介入せず、その人ができること、しなくてはならないことは任せる心の広さがいります。それは本当は(大きな)(自分と他者への)がないとできないことなのです。

「嫌われる勇気」でもありましたように、他人がどう思うのかは、その人の課題であり、自分の課題とは別であることを思い、ただ自分のことに専念するほうが、気がかなり楽になり、あの本でも言われていたように、真の自己の自由に近づきます。

このように、分離することと、共感することをうまく扱っていけば、人生は自分の手に戻ってくることが多くなり、生きる実感も得られるのではないかと思います。

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