「吊るし」から見る非日常性

マルセイユタロットに、「吊るし」というカードがあります。

ほかのタロットでは、吊るされ人とか、吊るされた男などと呼ばれているカードです。(大アルカナ12番のカード)

名前の呼び方からわかるように、ほかのタロットでは、このアルカナナンバー12のカードは、「吊るされている」という受動的姿勢、あるいは犠牲的なニュアンスで意味付けされていることが多いです。

しかしマルセイユタロットでは、「吊るし」として、あえてこの姿勢を自らと取っているという能動的なものを見ます。(マルセイユタロットでも、名前を「吊るされ人」として一般的名称で覚えるケースもあります。「吊るし」と呼ぶのは、あくまで私たちの考えです)

と言っても、「吊るし」に描写されている人物自体は動いておらず、足にはひもがあり、手は縛られているのかどうかわかりませんが、後手にあって、自由に出しているわけではありませんから、この姿勢そのものからは能動的なものを感じ取ることは難しいです。

つまりは、自分がやっているにしろ、誰かにやらされているにしろ、この「吊るし」では、何か動かない状態、籠ったような状態、不自由にも見える状態にあるのは確かと言えましょう。

タロットは、私たちの意識や行動の元型を示すという考えがあり、その見地に立てば、こういうカードが存在していることは、私たちの内と外(意識と行動)に、「吊るし」になる状態がある(必要とされる)と見ることができ、それはいかなる時なのかという考察ができます。

「吊るし」の人物の姿勢の大きな特徴は、動かない(停止している)ことと、逆さまであるということです。

逆さまについては逆になることですから、まさに反転したり、これまでとはまるで違った視点を持つことを意味します。

けれども、今日は、動かない、停止のほうをメインに言及します。

私たちが動かない時とはどういう時かと言えば、ひとつには、まさに固まってしまって身動きが取れない状態があります。

これは、外的(環境的・物理的)に八方塞がりのように、なかなか活路が見いだせない時か、精神的(気持ち的)にもどう対処していいかわからない、もしくはショックがあったり、落ち込んだり、鬱になったりして、動けない状態と考えられます。

要するに、大変弱っている、困っている状態です。(苦笑)

ところが、マルセイユタロットの「吊るし」の人物は、余裕とも思える表情をしており、あまり苦しそうではない感じに見えます。

ということは、身動き取れないピンチに陥った時こそ、慌てず騒がず、よい意味での諦観、観察精神のような客観性が求められると言え、動けば動くほど、事態はますます悪くなるという教訓を見ることができます。(「吊るし」カードの構図特徴から言えば、実は、全部塞がれているわけではないので、突破口、打開策は必ずあると主張しているようにも見えます)

あと、動かない時というのは、日常とは異質な状況になっていることも考えられます。

私たちはの日常(意識)では、常に動いているのが普通です。思考も感情も、あれこれと動き、ついでに行動も何かしなければ・・・という意識になっており、無意識であっても、何かどこかしらは動いているものです。

まあ、生命の維持には、心臓も各器官も動いていなければならないわけで、それを言えば、すべてが停止することなど現実ではありえないのですが・・・そこまでの話ではなく、普通の日常の活動、生活においての動きということです。

日常が動きの状態と仮定すれば、逆に非日常は動きのない状態と言うことができます。

タロットでは、この非日常感を重要視します。リーディングの意識の時もそうですし、自己の内部や霊的に成長していく過程においても、日常とは別の世界や感覚が大切になってきます。

吊るしはナンバー12ですが、下一桁として同じ2を持つ大アルカナは、「斎王」(一般的に女教皇と呼ばれるカード)です。

この「斎王」は、現実世界においての巫女的な女性、そうした意識になる状態を示唆します。

タロットではなくても、皆さん、巫女的な女性と普通の日常的・俗世間にいる女性とでは、特に精神世界において(実生活でも)違うことはわかるでしょう。

それはもともとの能力・気質の違いもありますが、巫女になるための状況(儀式)を経験することで、一般的・俗的にあった女性が変容していく場合もあるのです。

言わば、内的に変わるためには外的な環境も重要なことがあるのです。

それが日常とは隔絶された環境であったり、エネルギー・周波数の違う場所であったりするわけで、また、さきほど述べたように日常が動きの世界であるのなら、非日常(内や霊に呼応・感応する世界)は動きのない世界と言えますから、自らを停止させるための状態も(巫女になることや、霊性と接触するための環境のために)あるのです。

よって、「吊るし」は、日常から非日常へ、言い換えれば、現実・通常意識から霊的な意識へと変化させるためのセッティングを行ってると考えることができるのです。

具体的なその方法は、メジャーなところでは、瞑想ということもあるかもしれませんし、もちろんほかの方法もあり得ます。

ただ総じて言えるのは、動かない状態、静かな状態であるということです。「斎王」においても、その絵柄ではヴェールが描かれ、ほかの場所から隔絶された、動きのない、静寂な環境にいることがわかります。

「吊るし」も「斎王」も、現実的(物理的)な意味では自由があまりありません。むしろ不自由な環境と言えます。

実際の僧侶・尼僧、修道士・修道女など、神や仏に仕え、修業的なことをしている人は、あえて不自由な環境で生活し、日常・世間とは隔離された隠遁的な場所で暮らしています。それはやはり、俗世間と自由過ぎる場所では、霊的なものとの接触と、そうした窮地に至ることが難しくなるからだと言えます。

演出でやっているのではなく、伝統的にも、目的達成の効果が、そのほうがあるからされているのだと思います。

私たちは普通、修行僧ではありませんから、そこまでする必要はないですが、それでも、日常の動きある世界にそのままどっぷり浸かり、流される生活をし続けていると、内的にも霊的にも成長が遅れてしまうことがあります。

とは言え、窮屈や不自由にしろというのではありません。

普段の動きのある世界での自分というのは、他人や周囲に気遣い、余分な力もかなり入っていて、身体的にも精神的にもガチガチになっていることが多いのです。

ですから、動きのない世界に入るということは、その逆に、むしろ脱力やリラックスした状態とも言え、日常的な情報を遮断し、外部センサーを動かし過ぎるのを止め、刺激を少なくして、その反応も低減していくことが望まれます。だからこそ、「吊るし」の人物は、手や足が自由に動いていると刺激を受けてしまうので、そうならないように、あのような状態にしているのだとも考えられます。

精進潔斎においても、「籠る」ということがありますが、これも、ひとつには、(外部の俗的な)刺激を遮断するような効果を期待してのものだと言えます

昔から、聖と俗は違う世界としてとらえてられており、その区別がきちんとされていないと、なかなか本当の意味で統合的な境地には進まないのだと思います。現代は、これが混沌としているので、意識的にも聖と俗を区分けする時間と空間を作る必要があるのかもしれません。

なお、「吊るし」と籠りの関係については、こうした聖なる状態を作る意味以外にもいくつかあり、現代的病理や問題現象の観点からすると、いわゆる「引きこもり」についても考察することができます。

それにつきましは、また機会を改めて書ければと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Top