友だちはいなくてもいいけれど。

マルセイユタロットの大アルカナでは、数の順に成長していくという考えがあります。(小アルカナ数カードでも、ある視点からは言えることですが)

その観点でカードを観察すると、いろいろなことに気づくと思います。

そのひとつに、タロットの絵柄に出てくる人や動物の数の違いがあります。

全体の傾向として、数の小さいカードよりも、大きいカードのほうかそれらの数は多くなるように見えます。もちろん、数の小さいカードたちにも、人が多いもの(例えば「恋人」カード)もあります。

実は、そうした例外にも意味はありますが、今回は、この人や動物のようなものの数が増えていくことをヒントに、私たちの生き方について、考えてみましょう。

私たち人間は、ややこしい生き物と言いますか、たいてい、二律背反のような、別の心とか考えを併せて持ち、それらが葛藤することもあれば、どちらかのひとつを場面やシーンで選択して生きていることが多いものです。

そして、このこと(ふたつの相反する状態)は、一人のほうがいいと思うか、誰かと一緒にいたいと思うかという、誰しもよくある気持ちでも表されます。

性格や好みの差も当然あります。孤独を好む人、一人でいたほうが落ち着く人もいれば、常に誰かといなければ安心できないという人、大勢でにぎやかに過ごすのが楽しいと感じる人など、様々です。

しかし、たいていの人は、一人になりたい時もあれば、誰かと一緒にいたいと思う時もあるというのが普通でしょう。

これを、どらちかにしなければならないと思い過ぎると苦しくなります。

コミュニケーションの上手下手や、人間の価値を計る意味から、孤独、いわゆるボッチ(笑)を忌避したり、逆に、群れ・グループに入ることで、自分の存在を確認したりするようないびつな考えでは、自分が人とどう距離を保てばいいのかわからなくなって、不安になることでしょう。

タモリ氏も、「友だちなんかいらない」と述べたように、誰かといなくてはならないとか、友だちがいなければ人からなんと思われるだろうかとか、友だちから悪く思われないよう異常に気遣ったりするとかで、自分を見失い、自分が楽しく、あるいは穏やかに生きられないようでは、自分の人生なのに(他人のために生きるみたいで)本末転倒になってくるわけです。

その意味では、孤独、一人でもよしと割り切ったほうが楽かもしれません。

また、西尾維新氏のライトノベルで、アニメ化もされて人気になっている「化物語(ばけものがたり)」の主人公、阿良々木暦(あららぎこよみ)君も、最初は、「友だち作ると人間強度が下がる」という理由で、孤独を選んでいました。

これは、孤独の選択による精神性を中心とした強さが養われるという考えによるものと思われ、友だちを作ると、なるほど、友だちとの楽しい時間はあるかもしれませんが、反面いろいろと人間関係でわずらわしいところが出たり、気遣いするところがあったりで、自分というものが弱くなる(自分中心で決めらず、自分でいられなくなる)ということでしょう。

昨今の承認欲求オンパレードの付き合い方をしている人の多さを見ると、阿良々木君の主張も当を得ているかもしれません。

しかし、タロットの話に戻りますが、マルセイユタロットでは、先述したように、次第に人(や動物)は多くなっていきます

それでも中には、明らかに孤独が強調されているカードもあります。例えば「斎王」とか「隠者」などです、「隠者」に至っては、9の数なので、大アルカナでも半分くらいのそこそこの位置ながら、孤独性が謳われています。

昔から、精神的・霊的な成長のためには、俗世や一般の人から離れ、孤独な時間と空間に身を置かねばならないとされ、修行者に実践されてきました。その意味については、あえて今回は書きませんが、マルセイユタロットが霊的な成長プロセスを描いていると仮定するのなら、孤独の絵柄もあってしかるべきです。

一般生活においても、やたらと人と群れるのは、すでに言ってきたように、自分を見失うだけで、一人の時間は、いろいろな意味で必要でしょう。一言で言えば、人に依存しないように、一人になる、一人で生きるというシーンも大事だということです。

ただ、やはり、この世は自分一人だけの存在で成り立っていないのは明らかです。

たとえスピリチュアル的な意味で、「この世界は自分の創造にあり、究極的には自分しかいない」という考えであっても、自らを中心に、多様なものが放射されるがごとく、いろいろな階層・レベル、表現でもって、存在性は分化し、多様に「いのち」として表現されています。

ですから、他は自分でもあり、自らを救うということは他人も救うことになり、その逆もまた真なりで、他者を救うことは自己を救うことにもなると考えられます。

「化物語」の阿良々木君は、当初は人間強度が下がるからと、友だちを作りませんでしたが、本気で思っていたわけではなく、言ってみれば、友だちができない変わり者的な自分をすねていたのであり、孤独である自分を正当化して、かっこいい理屈をつけていたに過ぎません。それは強度どころか、自分の弱さでもあったのです。

結局、阿良々木君は、怪異と関係する者たちとの壮絶な体験を重ねることによって、友だちとも仲間とも恋人ともいえるような存在が増えました。その結果、むしろ彼の人間強度や魅力度は上がったように見えます。

これは、自分の弱さや限界を認め、受け入れることでもありました。

「化物語」はしょせん創作の話で、しかも怪異が出るようなファンタジーで、現実の私たちとは関係ない話と思うかもしれません。

ただ、タロットでも人の数が増えていたように、私たちは、一人よりも、全体(多勢)として見た時、その強さは最強になります。それは、さきほども述べたように、現実世界では、一人ひとりでは限界があり、できないことも多いからです。

霊的覚醒レベルになると、その一人の限界も超えていくようなことになるのでしょうが、現実的な意味においては、私たちが世界(全体)の力を知ることが、タロットからも示唆されているように思います。まさに「世界」と「力」のカードの関係のようでもあります。

私たちが、自分の個性を探求し、それを理解しつつも、同時に限界や苦手なところも知って、その面は、他人が担ってくれることを、「世界」というカードの視点を持つと気づいてきます。

よく言われるように、一人では無力だが、集まると大きな力になり、とてつもないことを成すことができるのです。

「化物語」の阿良々木君の言う、“人間強度”は、他人への依存(または逃避的な孤独)だと確かに下がることになりますが、自分の弱さも強さも個性も認めたうえで、他者を尊重すると、それは他者(が与える力)=自分(を救う力)にもなってきて、カードで言うと、「節制」の協同的力(それは救済力でもあります)が発現されてくるようになります。そうなると、逆に、人間強度は増すのです。

シンプルに言えば、私たち自身が世界であることを知る、世界と人々を好意的に見る(ただし、何でも甘んじて受け入れて支配されること、平均的思考で皆まったく同じになること、無抵抗になることとは別です)という感じでしょうか。

マルセイユタロットの「世界」の真ん中の人物が、周囲の四つの生き物とリースに囲まれて、踊っているように見えるのも、霊的には自分が宇宙になっていることでもあると考えられますが、現実的な話では、やはり、自他の協同、理解、助け合い、学び合い、能力・考えの提供、交換などの、それぞれの個性を活かし、調和する社会(世界)を示しているように思います。それが一人ひとりの強さと自信にもつながってくるのです。

全体で支え合えれば、一人ひとりの安心感も増し、自分自身の人生を豊かに、創造的にしていく機運もますます上がり、さらにはそれが全体の向上へと還元されてくるでしょう。

孤独で生きるのもよいですが、全体へ世界へと意識を向けていくことも、結局、自分のためにとってもよいことになるので、「自分のできる世界への開き方」を考えてみましょう。

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