現実での移動、ふたつの地点
マルセイユタロットの「節制」のふたつの壺と水にも言えるかもしれませんが、「ふたつの世界」の混交・交流というのが確かにあると感じます。
この「ふたつの世界」というのは、スピリチュアル・心理的には、意識と無意識の世界、見える世界と見えない世界、物理的な(ことが中心の)世界(観)と精神・霊的な(ものが主体となる)世界(観)というのが、このブログを読んでいるような人には想像されると思います。
しかし、現実的な意味での、ここの地点とあそこの地点(こちらとあちら)、A地点とB地点というような言い方も、もちろんできます。
私も含めてですが、この現実的なふたつの世界(地点)についての視点のことが、意外に欠落している(ほとんど意識されない)のに気づきます。
私たちは、日常的に、無意識と言いますか、それほど自覚なく、流れ作業のように、今いる地点と、これから向かう先の地点(移動先)を動き続けています。
毎日の出勤もそうですし、もっとミクロで言えば、家の中とか、職場の中においても、細かく言えばきりがないほど移動しています。
さらにもっとミクロに見ると、腕や指、足も動かしているわけですから、つまりはじっとしていることなどありえないということです。たとえ寝たきりでいようが、肉体の何かがわずかでも動いていることは確かでしょう。
タロットでは、「吊るし」という停止を象徴するカードもありますが、このカードも宙づりの状態にあり、もしかすると、微妙に風にゆらめいて動いているのかもしれません。
そこから考えると、私たちは完全停止ということはありえないのではないかと思います。移動というテーマで言えば、いつも移動していて、同じところ(同じ形)が永続していることはないわけです。
マクロで考えてみても、私たちは地球の上にいるのであり、地球が自転し、太陽の周りを公転しているとなれば、じっとしているように見えても、これまた実は常に移動していることになります。最近、よく言われるように、太陽自体も何かの周囲を回っているともし考えるのなら、地球も(太陽系自体)、前と同じ場所にはいないことになります。
こうして見ると、私たちは、まるでタロットの「愚者」のように動き続ける(移動し続ける)存在であることがわかります。
しかし、そんな動く私たちでも、常識的な感覚で言えば、どこかには必ず(一瞬でも)落ち着いている場所や時間というものがあります。それは移動する前の地点です。
細かく言えば常に動き続けている私たちでも、感覚としては、「ここ」から「あちら」というように方向性があり、移る前には、停止している場所、留まっていると感じるポイントがあるのです。
そこが、「現在」「今」と感じる場所であるのもわかると思います。
ところが、その場所も、実はマクロな意味、あるいはミクロな意味で動いていることがわかりました。すると、私たちの「今」というのは、どこにあるのでしょうか?
結局、文字通り、今いる場所、今自分が止まっていると思える場所こそが今という感覚になりますよね。
スピリチュアルな世界では、時間は「今」しかないとか、今この瞬間が大事だとか、今にすべての創造があるとか言われます。
では移動している時というのはどんな時間・状態なのでしょうか?
場所が動いていますから、「今」とは言えない気がします。
それでも、例えば電車に乗って移動していれば、自分が止まっているように思う場所、つまり電車の中にいる自分の場所が今であり、時間(と場所)は移動しているものの、今・この瞬間は電車の中にあるという不思議なことになります。
もしスピリチュアル的な人が言うように、時間が今しかなく、今にすべてが創造されているのなら、電車の中の例でいうと、電車の移動も、周囲の風景も疑似的なものであり、自分のいる場所の瞬間瞬間こそが実在みたいになってきます。
別の面白い言い方をすれば、電車が移動するごとに、景色がその都度創造されているようなものです。それもあなたの意識が外に向けられた瞬間のみですが。(笑)
よーく考えていくと、本当は移動もないのかもしれません。
電車の例えが出たので、また電車のことで示しますが、乗っている電車と同じ速度の電車が外に平行して走っているのが見えれば、あちらの電車に乗っている人と自分が、まるで動いていない、止まっているように感じますよね。
でも実際は、どちらの電車もかなりのスピードで動いているわけです。
これと少し似たような話で、もしも自分が動いているのではなく、景色のほうが動いているとすればどうでしょうか?
自分自身はただその場で足踏みしているだけで、周囲の景色が映像のように動いていく感じを想像してみてください。
すると、おそらく、ものすごいリアルな景色(映像だけではなく、音とか雰囲気とか、匂いとかもリアルなもの)の場合、自分が本当に移動しているような錯覚を起こすのではないかと思います。
最近のバーチャルリアリティの世界はかなり発達してきていますので、自分はただ装置をつけたり、そういう仕掛けの中にいるだけなのに、世界を旅行したり、とんでもない経験をしていたりするような感覚になります。
話を戻しますが、結局のところ、自分の肉体の場所というより、自分が思う意識のうえでの「ここ」というポイント・地点が重要なのではないかと思います。
今・ここが大事だと言われるのも、意識がここを決めるからで、「ここ」がまさに自分の世界の中心になっており、「ここ」は動いておらず、周囲のほうが創造的に移動している(ように見える)からだと感じます。
唯心論の立場からすれば、心が世界を創っていることにもなり、そこまで言わなくても、自分の今・ここという感覚が周囲に関係すると言えそうで、その意味では、やはり自己が自己たる感覚、土台、確立、確信が重要となり、思いが世界を変えるにも、しっかりとした自分中心感覚が必要であることがわかります。
言い換えれば、逆に、移動する感覚に振り回されないこと、どこにいても「ここ」であり、世界は自分の中にあるという感覚に近いものでもあるでしょう。
例えとしては変ですが、巨大な自分と、小さな自分が常に回転しながら同調しつつ、巨大な自分が小さな人形のような地図上の小さな自分を動かしているような感じです。
ですから、物質と霊というふたつの世界の見方の前に、現実の中にも、ふたつの世界がすでにあり、私たちはその間を行き来しているようで、実はしていなく(笑)、「節制」の壺の水のように、交差している真ん中の地点にリアリティを感じているという話です。
結局、現実のふたつの世界(ふたりの自分とも言えます)も、「霊と物質」のようなふたつのことと同じなのだと思います。
今回の話は、私自身も気づき始めたばかりのことで、まだ完全にうまく説明することはできませんが、本当はシンプルな話で、今いる「あなたのそこ」「私のここ」がすべてを回しているような話なのです。これは「運命の輪」や「世界」のカードとも関係してくるように思います。
皆さんも、時々、立ち止まっている時、動いていない時の自分と、移動している時の自分、目的地に到着した時の自分などに、意識をそれぞれ向けて見てください。
動いているのは物理的には自分ではありますが、本当にそうなのか、移動しているものは肉体と言えるのか、特に移動している時の「今」「ここ」「私自身」はどこにいるのか、考えてみるとよいでしょう。
こうなると、マルセイユタロットで言われる「愚者」と、そのほかの21枚の大アルカナとの関係性も、また、とても興味深いものとなります。
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