カモワン流とホドロフスキー流
日本では、マルセイユタロットと言えば、ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロット(通称カモワン・タロット、以下カモワンタロットと表記)が結構有名になっています。
おそらく、世界的には創作系マルセイユタロットの区分に入れられ、マイナー扱いではないかと推察されます。
それは、カモワンタロットが、古いマルセイユタロットをもとにしながらも、現代において創作を加えながら、復刻されたものであるからで、言わば新しい(マルセイユ)タロットなのです。
マルセイユタロットは、17から18世紀にかけてフランスを中心に出回った(同じタイプの絵柄の)タロットの総称ですから、本来はその時代のものがマルセイユタロットだと言えます。
マルセイユタロットの歴史につきましては、研究家も世界では多く、日本でも夢然堂さんあたりが、とても詳しいですので、歴史的なことや成り立ち、各版における微妙な違いなど知るのに、非常に参考になりますし、日本でこのような方がいらっしゃるのは、すごいことだと思います。
ちなみに、日本ではカルタと呼ばれる遊戯カードの歴史も、意外に古いもので、タロットのようなカードが、ポルトガルなど南蛮貿易により入ったことで、カード類は日本人にもなじみになって行きます。
花札などもタロットと関係すると考えられます。今やコンピューターゲーム会社として名を馳せる、あの任天堂さんも、もとはと言えば、カルタ、花札などの遊戯カード販売の会社でした。(現在もカード類は販売されていますが)
それで、私自身は、もちろんマルセイユタロットリーダー、講師である以上、そういうカードの歴史には興味はありますが、それよりも、マルセイユタロットの象徴性自体に強い関心があり、それも学術的、あるいは歴史的にそれがどう成立したのかという観点は、私にとってあまり重要ではなく(軽視もできませんが)、私たち人間において、マルセイユタロットの存在・システム・絵柄の象徴が、どのよう意義を、古代のみならず、現代的な意味においても持つのか、考察と活用、そういう点に興味の中心があります。
ですから、カモワンタロットが、たとえ創作・復刻版的な現代のマルセイユタロットであったとしても、象徴性において優れているのであれば、大いに活用できるものだと考えています。
私自身、タロットと言えば、マルセイユタロットにしかほぼ興味がなく、最初にカモワンタロットから入った口ですので、今もって、リーディングにおいてはカモワンタロットを使用させてもらっていますし、このタロットを作ったフィリップ・カモワン氏とアレハンドロ・ホドロフスキー氏、さらには、日本でカモワンタロットを広め、教えを受けました大沼忠弘氏には敬意を表しております。
ですが、今は独自路線として、マルセイユタロット講師・タロットリーダーの道を歩んでおりますから、ある意味、どこにも所属していないフリーの立場で、客観性をもってカモワンタロットを見ることがてきます。
カモワンタロットを純粋に学ぼうとすれば、やはり本家本元、カモワン氏の認定講師のもとで学ばれるのがよいと思います。一方で、カモワンタロットは、もう一人の製作者、アレハンドロ・ホドロフスキー氏のタロットでもあります。
数年前に、このホドロフスキー氏が書いたタロット本が日本語訳されました。「タロットの宇宙」(国書刊行会 黒岩卓訳 伊泉龍一監修)という本です。
この本の訳が出たおかげで、ホドロフスキー氏流のタロット観、タロットリーディングが、日本でも多くの人に知られることになりました。
もともと、ホドロフスキー氏のほうが、映画監督や創作・芸術家としても世界的に有名ですので、どちらか言えば、カモワンタロットと呼ばれるより、ホドロフスキー・タロットと言ったほうが、世界では通じるかもしれません。
ホドロフスキー氏がタロットの愛好家、研究家であることは昔から知られており、彼の作品にもタロットをモチーフにしたものが結構あります。
ホドロフスキー氏はその作品もそうですが、強烈な個性を放つお方ですので、それだけ熱狂的ファンも多く、あのホドロフスキー氏が使うタロット、作ったタロットとして、マルセイユタロットに関心を持たれる方がいらっしゃいます。
ということで、カモワンタロット(ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロット)を独学する方の中には、カモワン氏関連からではなく、このように映画世界のホドロフスキー氏関連、特にタロットにおいては、日本語訳された「タロットの宇宙」を基にして学ばれる方もいらっしゃるのではと思います。
またかつて、タロット大学(現イシス学院)の講師や受講生であった方からタロットを学習する人もいるとお聞きしますから、そういう(習われた)方が参考書として、「タロットの宇宙」を手に取ることは想像に難くありません。
しかし、ここで注意が必要です。
私はさきほど、自身の経歴で、カモワンタロットを学びながらも、独立し、今は客観的立場で、カモワンタロット(カモワンタロットを教える講師ではありません)を見ていると申しました。ですから、カモワンタロットにおいての、いわば、カモワン流とホドロフスキー流の違いも指摘することができるのです。
同じタロットの製作者であるお二人ですが、そのタロット観とリーディング方法(技術)はかなり異なるものです。
特に、用いられるリーディング技術、展開法、読み方も、全く違うと言ってもよいくらいです。
例えば、カモワン流では、正逆の位置とタロットに描写されている人物の視線を追って展開していく方法が採られますが、ホドロフスキー氏の展開法は、正立のみであり、視線との関連を見ることはあっても、それほどカモワン流ほど厳密ではありません。
むしろ、視線を取らないことのほうか多いと言えます。公開されている動画など見ますと、ホドロフスキー氏の主とする展開法は、スリーカードであり、最初に三枚、正立で引く(最初に三枚引くのは、カモワン流でも用いられますが)のが普通です。
解釈の違いの例も示しまょう。
例えば、二枚引き(二枚カードを並列に置いて読む方法)においては、ホドロフスキー氏は、その著書「タロットの宇宙」では、大アルカナの場合、数の順番通りに並ぶほうが、エネルギー、方向性としてよい、うまく流れると解釈するように記述されています。
しかし、カモワン流では、視線の向き合い方がかなり重要な意味を持ち、正立同士のカード人物の視線の向き合い、もしくは、視線が他のカードに注がれている場合、カードの数にはあまり関係なく、その二枚の視線の関連性が強調される読み方を取ります。従って、大アルカナの数が右方向にマイナス(左のほうが数が上)で並んでいても、よい解釈になることもあるのです。
もし、カモワン流を習い、まだタロットの理解が浅い段階で、ホドロフスキー氏の「タロットの宇宙」を読むと、特にリーディングの解釈において、かなり混乱したことになるのではないかと予想されます。その逆もまた言え、ホドロフスキー流に慣れてしまうと、カモワン流の正逆と視線を追う展開法が、なかなかわかりづらいものとなるでしょう。
もちろん、どちらの見方も間違いとか正解はありりません。ひとつの解釈の技術と言えます。
ただ、実際に、カモワンタロットを使い、リーディングをしていく場合、両者の読み方や解釈(を生半可で知った状態で)の整理がついていないと、どちらの読み方(解釈)が正しいのかわからなくなったり、どのケースにおいて、どの読み方を適用すべきかということも、よくわからないままで、いろいろなパターンを言うだけ言って、リーダーだけではなく、クライアントを迷わせてしまうこともあるのです。
知識自慢ではありませんが、たくさんの読み方や技術を知っているからと言って、よいリーディングができるとは限らないのです。自分の使ってる技術、読み方がどのようなものかをきちんと整理して理解しておく必要が、タロットリーダーにはあります。
そして、、ホドロフスキー氏とカモワン氏とでは、ここが決定的で重要な違いと言えますが、それぞれが「是とする思想」と言いますか、「本来的に人間はどうあるへきか」の考え、置きどころ、根本が異なるところがあると私は考えています。(さらに、人間向上のプロセスとしての、重要選択事項が異なるとも言えます)
土台となるタロット観自体が違うので、リーディング解釈も両者によって変わってくるのも当然です。
ホドロフスキー氏のほうがタロットと現実の扱いにおいて柔軟であり、より人間的と言え、カモワン氏は、よく言えば純粋であり、二元論的、物質と霊の対立、そこから(霊に向かう)浄化というところが強調される見方になっているように感じます。
一見、ホドロフスキー氏のほうが、限定的・地上的に見えますが、その逆で、むしろ宇宙的・包括的であり、カモワン氏のほうは一見、霊的で抽象的でありながら、その実、とても限定的・地上的なところがあるように見受けられます。
そして、リーディング技法においては、ホドロフスキー流のほうがシンプルには見えますが、学んだり、実際に行ったりするのにはなかなかなか難しく、カモワン流のほうが逆に取り組みやすく、読みやすいのではないかという(個人的な)感想です。
本業が映画監督であり、創作家として現実世界との関わりをたくさん持ち、サイコロジストであり、セラピストでもあるホドロフスキー氏と、タロットメーカーの子孫として生まれ、タロットを自身の至上命題とし、孤独に引きこもりのように霊的探求をし、スピリチュアリストとも言えるカモワン氏との違いとも言えましょう。
このように、かなり異なるお二人なのですが、それでも共同でタロットを製作したわけですから、二人の共通点、意気投合したところもあるはずです。
マルセイユタロットについて理解が深まってくれば、お二人の読み方の違いと、その奥にある共通観点も見えてきます。それこそが、私たちが(二人のタロットから)知るべきことなのです。
どのような人にも、タロットが好きであるならばなじみますし、タロットは、その人の思想・信条を補助したり、整理したりしてくれます。
そういう意味では、タロットは、どんな人が扱うにしても、(解釈・考え方に)自分色というものが出ます。
同時に、(マルセイユ)タロットは、ホドロフスキー氏とカモワン氏が違っていても、同じタロットを作り、それぞれがタロットを深く信頼しているように、何か普遍的で確かな魅力、論理、感性のようなものも持ちます。
一人一人、違っていて当たり前でありながら、深いところ、高いレベルではつながり、共通している・・・と言えば、それはまるで私たち人間と同じと言えます。
タロットによって人(自他)を知り、宇宙を知ると言われるのも、このような所以からだと思います。まさにホドロフスキー氏ではありませんが、「タロットの宇宙」なのです。
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