悩み、苦しみの救いの段階・ルート

苦しい時、悩んでいる時、人はまず自分で考えます。

しかし、たいていの人は耐えきれず、身内や親しい人、友人など身近な人に相談するでしょう。

また専門的なことは、まさにその道のプロに相談したり、対処してもらったりします。

しかし、それでもどうしようもない時、または、現実的にはどうにもならないと自分が思ってしまった時、最後には神や仏様に祈る、文字通り、神頼みをするかもしれません。

これは信じている宗教とか信仰に関わらず、日本人ならば、自然にやってしまうところがあるのではないでしょうか。

さて、こうやって見てきますと、人は、自分の危機において、自分頼み、他人頼み、最後は、神や仏のような、超越したものに頼ってしまうという流れ、段階があるように思います。

もちろん、一律に皆がそうなるというわけではありませんし、段階においても、途中で、神がかりな人とか、人間離れした能力者に頼る、最近ではAIやネットの情報に頼る(笑)というのもあるかもしれません。

それでも、多くの人は自分の問題を自分だけで収めてしまえるほど強くもないですし、逆に言えば、自分だけに抱え込まないからこそ、救いがあるのだと考えることができます。

自己責任という言葉が暴力的に唱えられるところもありますが、人間、何でもかでも一人できるものではなく、まれに強い人もいますが、一人では弱い存在でもあります。

注意しなければいけないのは、問題や悩み、困難状況に対する精神的な負担への思い、実際の対応能力には、個人差と言いますか、個性があるということです。

まったく同じ条件の悩みであっても、Aさんにとっては、まあ、ちょっと大変だな思う程度かもしれませんが、Bさんにとっては、死ぬほどつらいことなのかもしれないのです。

それをもって、Bさんは情けない、自己責任だから自分で何とかしろ、というのは酷だと思います。

もちろん、明らかに甘えすぎであるとか、嘘をついているなどのことがあれば問題ですが、まじめにやっているのに、つらい、苦しいというのは、平均を取ったり、皆と比べたりするのではなく、その人個人の苦しさとして受け止めてあげたほうが、その人にとっても救いとなるでしょう。

特に人の相談をするような人は、当然わかってはいることでも、この「相手の立場になって考える、共感する」ということが意外にできない人もいます。つまりは自分とか、イメージ上の常識集団の感覚で見てしまうのです。

さて、話を戻しますが、やはり、先ほどの、「悩みや苦しみをどのように解決や処理していくのかの段階」で言いますと、自分だけですべて完結できる、解決できると思い込むのは危険だとわかります。

それができる軽度の問題・悩みならいいのですが、悩むということは、もう自分ひとりのレベルや経験・知識では難しいということもあります。

よって、次の段階には、他人に相談することになります。

そして、一人ひとりが、まさに「一人」で苦しまないないよう、相談できる仕組み、システム、社会の雰囲気が重要であるとも言えます。

自分の次は他人へ相談するという流れがあるのですから、この「他人」の部分を、社会的にもっと拡大したり、充実したりすればよいのです。

人類の集合知と言いますか、誰れもが相談でき、相談を受けて、一人一人の悩みを解決する雰囲気の醸成、困ったことをお互いで解決し合う社会的常識を作り上げるわけです。

専門家が必要な時は、それにつなげるルートや仕組みも充実させます。いわば、共助・公助の部分を厚くしていくことと言えるでしょう。

マルセイユタロットで言えば、誰もが「節制」の天使になると例えてもよいです。

しかしながら、これでも、最後は神頼みという段階もあるかもしれません。

ここで、実際に神様がおられるとか、神様の力が発動させれるとかということを議論したり、言ったりするのではありません。

神様や仏様に頼る、祈るという、別の救いの段階、悩みや問題の軽減ルートがあってもよいと語っているわけです。

その仕組み・理由を説明しましょう。実は、このことは結構、秘儀に近いことで、タロットの霊的技術にも関係します。

私たちは神仏など、超越的なものに祈る時、神社とか仏閣などに行きます。そこに行けない時は、自宅の神棚、仏壇などに祈ることもあるかもしれません。

こういうものがない人でも、手を合わせて神仏に祈ったり、心の中で、何か言葉・マントラなどを唱える方もいるでしょう。

いずれにしても、その瞬間、日常ではない感覚になっているはずです。その非日常感が、自分と神仏などの超越的存在とをつなげるのです。

そういう意味では、非日常的空間にいるほうが、超越的なものと感応しやすい可能性があります。少なくとも、祭壇などがあったほうが、雰囲気が出やすいわけです。

そして、実は、神仏は、外にいる(在る)のではなく、自分の中にいる(在る)のだということです。

つまり、祭壇や社などは、仕掛けというか舞台演出のようなものだと思えばよいでしょう。

そういう仕掛けがあるからこそ、自分の中の、祈りに呼応した神仏的なものが現れるのです。(現れやすくなる)

神に祈って、実は自分に祈っているようなものです。

とはいえ、人は弱い存在だとも言いました。

ところが、反面、神性や仏性もあるのです。それが普段、日々の事象に悩む弱き人間としての部分がほとんどを占めてしまうので、なかなか表出して来ないわけです。

そのために、日常と切り離す、非日常的な仕掛け、舞台演出がいるのです。

こうして祈ることで、自分の強さが出て、私たち自身が奇蹟のようなことを起こす可能性を秘めています。

自分→他人→神仏(超越存在)と来て、最終的には→自分となって、結局自分に戻るのです。

人は救ってほしいと思った時に救われているというのは、このようなシステムがあるからと考えられます。

世の中はうまくてきています。

まずは自分として悩み考え、他人に救いを求め、ひとつの救いがなされると、他者を救いたくなるようになり、それでも難しい時は、神仏を頼りますが、その過程で、自分の中にある神や仏と出会うようになるわけです。

神仏に祈る時は、結構、大変な時でしょう。中には、祈ったところでどうにもならないことを自覚しながらも、仕方なく祈るという場合もあるかと思います。

そう、神仏に頼る段階では、結果は不明確で予想もつかず、そうそう奇跡が起こるわけではないのは承知のうえです。

だからこそ、一種の諦観と言いますか、悟りのような気分もやがて生まれてくるのだと思います。

その時、悩みはあっても、消えている感覚を持つ人もいるでしょう。それが奇蹟なのかもしれません。

この世は確かに悩み、苦しみの多い世界です。(そう思えない人もたくさんいて、それはそれでいいことです)

ですが、同時に、助けや救いも多いのです。自分を救いたければ、他人が救えるような社会に、皆で少しでもしていくことだと思います。

また霊的には神仏が救いをもたらし、それが結局は自分だったと気づくことがあるでしょう。

弱さ、強さを旋回しながら、私たちは、霊・魂の中心を磨き、存在として高めているのだと感じます。

そして、マルセイユタロットには、こうしたことを覚知させる智慧が隠されているのです。

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