個性と二極化、自分の選択

スピリチュアルな世界では、融和や統合を説きつつも、結構、差別化とか二極化の話がよくされます。

今回のコロナウィルス禍の中でも、不安の波に埋もれる人と打開を目指す人、進化する人とそのままの人とか、新しい世界に行く人と取り残される人・・・など、表現の微妙な違いはあるものの、やはり、二極化で語られることが多いように思います。

人は自分の望む世界にシフトしていく、あるいは、自分が世界を創造していくという、スピリチュアル的な観点がありますが、そこからすると、どうしても、それぞれの人の希望によって住む世界が異なってくるという言い方になるのは当たり前かもしれません。

死後の天国や地獄の概念においても、それも二極化であり、もともとそういうふたつの世界があるという見方もありますが、結局、スピリチュアル的には、自分の望む世界、あるいは自分に見合う世界に収まるということで解釈されており、たとえ地獄であっても、本人の想念がそれであれば、まさにその世界は自分にとってふさわしいということになるようです。

ただ、二極化という観念も、魂の向上のために方便的に言われているものならともかく、そこに差別意識や選民思想などが働いている場合は、ちょっとどうかなと思うところがあります。

自分はえらい、自分は進んでいる、覚醒しない人は置いてけぼり、物質は悪で霊や精神こそ至上・・・みたいなスピリチュアル的な思考・感情は、かなりアンバランスな面もあるのではないかと危惧されます。一種の逃避や、エゴの肥大による自分へのわがままな保守ということもありえます。

自分というものはまずは大事ではありまずか、自分と全体とを共有して見て、自己の救いが他者の救い、全体の救いになり、その逆もまたありで、他者の救いが自分の救いに同時になるという、相対しながらも同じに見られる視点も重要だと考えます。

タロットでも、カードそれぞれのエネルギー・波動の違いを設定して、優劣的に解釈する人がいます。

カードの違いは、実際に絵柄も意味も異なるわけですから、その見方は当然なのですが、そこに優劣的観点を入れてしまうと、場合によっては問題となります。

それは、カードに良し悪しの順列ができてしまうことで、単なる吉凶判断になったり、エゴ的な見方を増幅させたり(自分さえよければよいという見方)、劣るとみられるカードの扱いが悪くなったり(ひどい場合は無視や拒否)するおそれがあるからです。

一枚ずつの違いを見ながらも、全体としてどうなのか、すべてが等しく意味を持ち、なおかつ個性があって、カード同士が組み合わさると、新たな意味が出たり、アドバイス・救済方法が見つかったりするという感じで見ていくのがよいと思います。

それが実は、自分と世の中のバランスある見方にもつながるからです。

よく、「私には個性やウリがない」「人と比べて優れているところがない」と嘆く人がいます。

これにはまず、前提を変えるとよいです。つまり、普通、なかなか人より優れているような才能、能力、技術は見つかりにくいということです。

だいたいの人は、個性はあっても、それが優劣の優て売り出せるほどの自信もなければ、実際にそれほど際立つものを持つ人は少ないと認識しておくとよいということです。ありていに言えば、多くの人は平凡なのです。(笑)

それでも、もともとの才能や外見はともかくとしても、あとから身につけたり、変えてたりしていくことで、自分の個性やウリ、エッジを立てることは可能です。このあたりは努力や工夫によります。

あと、さきほどのカードの話に関連しますが、自分一人だけではなかなか自分の個性がわからない、ウリにもできなくても、他の人と関わったり、協力したり、利用しあったりすることで、自分の個性・ウリが目立ってくる、わかってくるという場合があるのです。

人には大なり小なり、得意不得意、関心の強い部分、そうでない部分があり、それらは一人一人だとあまり際立たないかもしれないのですが、ほかの人との関わりによって、欠点も目立つかもしれませんが、目線の違い(目の付け所)とか、他人よりかはましにできる部分が逆に見えてくることがあるのです。

だからチームになれば、自分の個性が実は出てくる、わかってくる、表現できてくるパターンは意外に多いのです。

そういう意味ては、これからは、競争の優劣ではなく、その時々のチームやコラボによって自分も他人も活かされる時代になるのかもしれません。

例えば、ユーチューバーでも一人でやっていると、なかなか個性が出せず、多くの似たような動画として埋もれるおそれは大でも、誰かと組むと、その動画に個性が出て、目立つ場合もあるかもしれません。

また、何かひとつが飛びぬけていないとウリにならないと誤解している人もいます。

この世は、まったくのオリジナルはすでに出尽くしていると言われ、だいたいは、すでにあるアイデアの組み合わせで、新しいものができていると目されます。

ですから、組み合わせの妙があればいいのです。

人より少し才能があるもの、好きで努力できるもの、こういう分野を複数もって組み合わせ、伸ばすことで、新たな個性として表現できるわけです。この場合、異質なもの同士であればあるほど、その個性は輝きます。

ひとつの孤高なる頂に君臨し続けることはかなり大変です。よほどの際立つ才能があるか、とてもつない努力が続けられるかでないと、そのポジションは保てないでしょう。

しかし、複数の里山的な山を持っていると、一応平地よりは高くて目立ちますし、里山が複数集まれば、それなりの財産にもなります。

トップになって支配するという意識ではなく、ちょっとした特技や工夫、好きで伸ばしたものを皆さんに提供して、自分の不得意なものは、ほかの人に提供してもらったり、助けてもらったりするという相互扶助的な精神でやっていくと、肩に力が入らず、よいのではないかと思います。

際立つ個性はないのが当たり前の中で、それでも、自分らしい生き方(それは人と同じてあっても違っていても別にどうてもよく、とにかく自分を生きていると思えるもの)がなんとか少しでもできていればOKだとやっていれば、いつの間にか、それが個性として輝いてくると思います。

さて、二極化の差別化はまずいところもあるというお話を最初にしましたが、それでも、もし、今までの世の中に何かおかしさや違和感を持っていた人は、ポストコロナウィルスの世界と言われる今後について、やはり、自分なりの選択と創造(想像でもあります)をしていたほうが無難かと思います。

日本では緊急事態宣言も解かれ、少しずつ平常に戻りつつありますが、果たして「もとに戻る」「もとに戻りたい」と考えるのか、「新しい世界に移行する」と考えるのかの、その思考の違いによっては、自分の選択する(居る)世界も変わってくるのではないかと、スピリチュアル的には思います。

人はともすれば、流されやすい生き物です。

東日本大震災の時もそうでしたが、事態が収まってくれば、元の黙阿弥(本当はそうではないのですが)ということにもなりかねません。いや、それが自分の望みであり、それがよいという人は、別に構わないと思います。

しかし、これまでの世界に違和感を持っていた人、このコロナウィルス騒ぎで、世界や体制への疑問が出てきた人にとっては、元に戻るという流れと考えは危険かもしれません。

自分はどんな世の中の、どんな世界を望むのか、その世界は、全体として、今までよりたくさんの人の救いになるのか、そうした思いをもって今後のことを思い、活動していくことは、新たな世界にシフトしたい人には重要かと思います。

自分一人がどうこうしたところで、世界が変わるとはとうてい思えないでしょう。

ただ、今は世界自体が変わってきているという、まれな機会でもあるのです。そこに自分の思いを載せていくのも、これまためったにない機会かもしれないのです。

元の世界を希望する人、これからを悲観する人も少なくないでしょうが、あなた自身は、あなたの望むよい世界を、少なくとも想像していくことは必要かと思います。

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