「恋人」から「審判」へ
日本では、「空気」を読む、読まないということがよく言われます。
民俗学的に見ても、ムラ社会の続いた日本では、共同社会の中で、そのムラのルール・慣習・伝統、そして雰囲気さえも感じて守って行かないと、なかなかうまく暮らせなかったことの影響があるのではないでしょうか。
これは日本においては、特に農村社会が主であったがゆえに、同じ土地に留まって、皆で助け合いながら生きて行かねばならない環境の村落共同体では、自然の成り行きだったかと思います。
和を乱す者や、空気の読めない輩がいれば、それだけで共同体の維持が難しくなり、ムラの乱れは、集団の意識や環境の変化を生み、それは場合によっては、生死の問題に直結することもあったでしょうから、仕方なかったと言えます。
ただ、かつては、そうした閉鎖的ともいえる中でも、無礼講的な、ハメをはずことが許さる行事(お祭りなど)が施されていましたし、年齢層や男女別の集団などによって、いわば悩み相談、異端的な者への教育なども行われていましたので、バランスは取れていたところもあったかと思います。
やがて、都市社会化が進み、人々は住む場所と働く場所が変わり、生活の糧も間接的に得るようになりました。
しかし、共同体的な仕事のやり方は、昔から生活の場にあったわけですから、まさに人々の精神に染み付いた感じになり、たとえで言えば、まるで遺伝子的に受け継がれてきたように感じます。
だから、生活の場(家)から離れた職場であっても、そこに昔のムラ社会の掟やルール、集団での同調性・協調性の雰囲気が精神的に維持され、日本人らしい働き方が、そのまま時代は変わっても定着していたのだと推測されます。
極端に言えば、村長、年長者のいうこと守らなければならない、先輩・経験者によるものは正しい人の意見である、みたいなことで、その村長が上司とか社長に変わっただけなのです。
ゆえにサービス残業とかパワハラとかが、まかり通る社会が、ある面、続いていたと言えるでしょう。
しかし、時代は変わって行きますし、環境の体制も変化します。
それでも、長い間、集団の力で仕事と生活を動かす、保証するという精神的なルールと言いますか、雰囲気、もしかすると、ミームという言い方をしてもよいのかもしれませんが、その変化はとてもゆっくりだったように思います。
ところが、このコロナウィルスのインパクトによって、急激に変革が強制的になされようとしています。
そり最たるものは、オンラインでのテレワーク化の進展です。
今までは、同じ場所に集まって仕事をこなすという形式が普通でしたし、むしろ、それが強制的でもありました。
この形が、先述したように、ムラ社会の特徴を受け継いでいたものであることはわかると思います。
テレワーク化が進むことで、職場に直接的に集まらなくなり、たとえ組織としては同じ会社・チームで所属していても、実際は、おのおのが自宅などで、オンラインを通して一人一人、独立して仕事をするようになったわけです。
こうなると、その場で直接的に動く、関係する、関係させられるというものがなくなります。だから、直接的な協力体制、悪く言えば、強制的命令・指示の影響が弱まるだけではなく、集団の空気を読むことさえ、しなくてもいいことになります。
集団では、結果よりプロセスとか所属意識、同調することが重視されることもあります。
企業としては利益という成果・結果を生み出さねばならないはずが、結果よりも、仕事のやり方とか、協調性とか、従順性とか、それが大事にされることがあるわけです。
もちろん、組織である限り、チームワーク、目的達成のための集団による協力的な効果は無視できず、組織マネージメントも大切です。
しかし、あまりにそれが強くなりすぎ、目的のためより、チームのためが先という、本末転倒になったり、空気を読まねば集団から排除されるという、独立的な人、個性的な人、または敏感過ぎたり、逆にあまり周囲のことが気遣えない気質的な要因をもっている人には、つらいところがありました。
そのような人は、結局、独立・起業を選ぶか、そのようなスキルとか意欲が持てない人は、社会からはじき出され、誰かの保護下に入るか、社会保障制度に頼るか、あるいは、フリーター・派遣社員のような働き方で、点々と職を変えるなどして、なんとか自分が保てる生き方を模索するしかありませんでした。
かつて生活の場と仕事の場が直結して同じだったムラ社会にあっては、仕事ができない者であっても、生活の場としての助け合いがあり、それなりの保護体制もあったと言えます。
しかし、現代では、職住の分離と、貨幣・金融経済が進んだことで、仕事によってお金を稼げないものは生活もできないとなってしまったわけです。なのに、仕事場は、精神的には、ムラ社会のルール引き継いでいる状態です。
そうした状況が長く続いたわけですが、今年からは本当に変わった、いや、変わらされてきたのです。
ムラ的とも言える集団的な協力体制で、空気を読みつつ行ってきた仕事・職場が、一人一人の空間と時間で行えるようになり、一応、会社や組織としては存在はあるものの、物理的な集団・チーム・組織は弱くなり、ネットワークでつながっている個人という感じで、中世のギルド的な様相ながら、まったく新しい働き方、組織のあり方になるかもしれません。
ここで、やっとタロットの登場ですが(苦笑)、この変化は、マルセイユタロットの「恋人」カードから「審判」のカードの上昇のようにも思えます。
「恋人」カードは、三人の人間たちが話し合っている(その名の通り、恋愛関係を示唆しているとも取れるのですが)ように見えます。
人々の距離は近く、直接話し合える近さです。だから、この人たちは、まさに、物理的に直接的に会話できるような組織とか関係性を示すと考えられます。そうした直接的コミュニケーションと距離が重要なわけです。
一方、「審判」のカードとなりますと、「恋人」カードと同じように、三人の人物はいますし、距離は近い感じはするのですが、人々は裸であり、上空の天使を見ています。(それぞれの視線を追うと、全員天使に気づいていることがわかります)
一方の「恋人」カードの人物たちは服を着ており、上空の天使(この場合は小さい天使で、キューピッドでもあります)に気づいていません。
これらのことには、明らかな対比と象徴性の意味が隠されているのですが、詳しくは講座でお話するとして、ここでは、コミュニケーションの質や方法が、この二枚では変わっていることを指摘しておきます。
いわば、オンラインを通したネットワークでコミュニケーションするのが「審判」だとすると、旧時代のような、直接的コミュニケーション、集団的関係性を表すのが「恋人」と言えるでしょう。
これからの時代、組織に属しながらも、自分というものを大切にした働き方がもっと進むでしょう。
集団で作業するにはつらかった人や、なじまなかった人、さらには、自閉スペクトラム症と診られるような人でさえ、働きやすい体制が整えられてくるかもしれません。それは、人によっては、とても希望が持てます。
また、集団圧力や、上司や同僚との関係によって、仕事そのものよりも、人間関係で悩み、苦しかった人にも朗報となります。
上司からの命令は、テレワークでも、もちろんあるでしょうが、直接的に顔をつきあわせているのと、そうでないのとでは、影響力が違いますし、実際に接触する時間自体が少なくなりますから、心理的負担は軽くなると思います。
目に見えない世界では、人々の仕事の苦しみ・ネガティブな思いも、全体として溜まっていて、それが連鎖したり、他人にも影響を及ぼしたりしていると考えられますから、それらが少なくなれば、思念の重さは軽減され、人々の心の浄化や気づきも増して、社会全体も、いい意味で軽く、フレキシブルになると考えられます。
平たく言えば、これからはマイペースで仕事ができ、人から邪魔されることは少なくなるということです。
かつてよく言われた、「仕事のやり方は、(人に聞かず)盗んで見て覚えろ」みたいな、奇怪ともいえる指導方法も、オンライン・テレワークでは、ますます意味不明なことになり、教える側はきちんと文章なり画像・図面なりを見せたり、送ったりなどして指示しないとダメですから、そういう、妙ちきりんな指導も減ると思います。
こう考えると、世の中の流れは、霊的な意味で、真の個人の独立に向けて進化が加速していると見えます。
そして、個人の独立性を獲得しつつ、同時に必要に応じて、それぞれの能力や知恵、個性を皆で活かしあう(補い合う)という、ネットワーク的な、流動的かつ自由的共同(協力)性も築かれる流れにあるでしょう。
それは、自立型共生社会とでも言いましょうか。
そんな方向性に、実は、コロナウィルスの影響でも、向かっているのだ考えるこができるかもしれないのです。
前に「節制」への社会移行について書きましたが、「恋人」「節制」「審判」、このどれにも天使がいます。
最終的には、天使が描かれている、もうひとつのカードである「世界」として、完成に向かっていくのでしょう。
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