タロットにおける選択、決断
タロットは、よく状況判断や決断の機において使われることがあります。
タロット占いともなれば、それが顕著かもしれません。あと、タロット占いの場合は、カードに相手の気持ちなどが出る可能性があるので、気になる人との関係を占う場合において、有用と言えます。
気持ちなどというものは、自分でさえはっきりわからないことがあるくらい、あやふやなもので、態度とか顔に出ているようで、心裏腹という言葉があるように、実は表に現れているものとは逆という場合もあります。
それゆえに、他人の気持ちを知るというのは至難の業で、直接聞いて確認するのが確実ですが、それでも嘘をついているケースがあったり、なかなか面と向かって気持ち確認しづらい状態であったりということもあるので、それができれば苦労はないというところです。
ということで、タロットカードなどで、それを知りたいということになるわけです。
また、何かを決めたいという時は、自分ですでに決めてはいるものの、その確認や念押しをしたいという場合もあれば、純粋に、どれがよいのか、カードに決めてほしいということもあるでしょう。
いずれにしても、人は自分一人ではなかなか決められないもので、なぜかカードのようなものに頼る(苦笑)ことがあるわけです。
では、決めることができるのらば、(タロット)カードではなくても、何でもいいじゃないか、てなことになりそうなものですが、確かにそれはその通りなのですが、人によって、あるいは普遍的に、意外に頼るもの・ツールは決まってくるもので、どれでもよいわけではないのです。
ここにタロットカードが、長年占いや決断に用いられた理由があります。
その詳細は、またの機会に譲るとし、とりあえず、皆さん、なぜ迷った時にタロットカードなのか考えてみるのもよいでしょう。
ヒントとしては精神的・感情的理由と、見えない分野での理由といいますか、それなりの論理があるということです。
私は基本的にタロットカードには吉凶や優劣を見ないほうがよいという立場ですが、こと何かを決める場合においては、案外、カードの吉凶性や優劣性を設定しておいたほうが判断しやすいというところがあります。
下手に高尚ぶって、カードを平等に扱い過ぎると、実用的ではなくなるおそれもあります。ただし、逆に言えば、実用的ではないということは、抽象的的世界、精神や霊性の拡大に使えることにもなりますので、それは目的次第と言えます。
カードに吉凶や優劣を設定しておくと、説明しなくてもわかると思いますが、よい・悪いで見ることになりますので、当然、よいカードが出れば、その選択はよし、悪いカードが出ればダメということで単純に判断することができます。
ここで重要なのは、吉凶・優劣設定と、心理状態を表すようなこととして、カードに優劣のない平等なる設定をすることと、技法的にも区別をつけておくことです。
特にスピリチュアルや心理的にカードを使う人に多いのですが、カード扱いの設定基準があいまいになっているので、時に心理的に判断したり、時に吉凶占い的に見てみたりと、混同したカードの読み方になり、結局、どっちつかず、決断ができない(どちらてもありとか、どちらでもないような。。。みたいな感じになる)状態になるわけです。
最初から、「この展開(技法)は、吉凶設定ありでやります、読みます」と決めておくなどの措置がいるのです。
タロティストとしても有名なカルト映画の巨匠、アレハンドロ・ホドロフスキー氏も、タロットリーディンクは一種のゲーム(の設定をする技術)であると述べています。
同じカードを使うにしても、そのリーディングにおけるルール、世界観というものが設定され、それによっては、別のゲームになるかのように、別種の解釈となることもあるのです。
この、ゲームにおけるルールこそが、タロットリーディングの大元を決めていると言っても過言ではないです。
ですから、ルール設定によっては、「神の家」や「13」が悪いことを示すカードになることもあれば、まったくそうでないことを表すこともあるのです。
タロットリーディングの間違いというものも、この設定やルールをごちゃごちゃにして、すべて同一のフィールドに置き換えているからそう思えるだけで、間違いなどはタロット(とは限りませんが)にはないと言ってもいいのです。
間違いや正解だと決めるのは、タロットを扱う人間側のルールや設定、価値観、解釈になります。
これはよく考えると、一人一人の人間と同じです。
誰しも自分ルールを持っていますし、そのルールや価値観も、どこから来ているかと言えば、自分を囲む環境・人間・社会からのものと言えます。
だから、世間の共通ルールもあれば、一人一人の世界観によって違うルールも出てきます。これらをまたすべて同じ線上に置いてしまうと、ゲームルールがバラバラの中に自分がいるみたいなもので、どれが正しくて、どれが間違いであるかが余計わからなくなってしまいます。
これに時系列も入ってくると、昔ではよかったが、今は許されないみたいなことがあり(その逆もあるでしょう)、ますます(良し悪しの判断が)難しく、複雑になってきます。
従って、選択や決断において、何を基準とし、どんなルール・世界観・価値観のもとの設定でやるのかを、完全に決められなくても、ある程度明確にしておくと、選びやすい、判断しやすいということになります。逆に言えば、それが曖昧模糊とした状態では、明確な回答も得にくく、何かをきちんと決められないことにもなります。
タロットで言えば、吉凶カードをあらかじめ決めておくみたいなことです。(その吉凶を決める基準・ルールもわかっていることが前提)
例えば、人生で言えば、長期的に見るのか、短期的に見るのかによっても違ってきます。
吉凶を超えるようなことは、たいてい、長期的視野か、今の価値観を超越・統合した視点でかのものによります。
ですから、吉凶設定ではない読み方や判断をすることは、自分を成長・拡大させるきっかけとなりますが、その分、判断や読みが今の自分を超えるので、難しいことにもなります。(そのため、より客観的判断が必要になり、他人に見てもらったり、人間的感情を超えた論理・真理的なもので見たりするということが求められます)
確率の話でも、例えばサイコロを10回程度振ってみると、人によっては、ある目に偏ることはあるかもしれません。しかし、回数をどんどん重ねて行けば、結局、確率論の数値に収まるようになることが知られています。
自分ルール過ぎる視野で短期的に見ていると、自分は不幸だとか、ダメとか、この選択こそが正解、あれを選んだのは失敗だった・・・となるかしもれませんが、神のルール、長期的視野といいますか、霊的な視点からでは、平均・平等化する(まさにそれが人生、良くも悪くもずべて同じ愛のもとのような感じの)話になるかもしれません。
とはいえ、自分という肉体と今の自我を持って今生の人生を送る期間は限定的で、一度しかないものでしょう。となると、自分ルールや短期的視点での選択も必要な時が出てきます。
タロットの場合で言うと、吉凶的ルールのもとに、判断する機会もあってよい、そうせざるを得ない時もある、というところでしょうか。
というようなことで、皆さん、タロットを使いながら、人生のいろいろなことを選択・決断してみるのも、ひとつの生き方です。(笑)
それはタロットに依存するのではなく、タロットというツールを使って、選択を楽しむという、ひとつのゲームをしていると考えましょう。
タロットを使うという選択を、あなた自身がしているということを自覚するのが大事なのです。(使われるのではなく、また使ってやるのでもなく、タロットのある人生で彩りを見ているような感覚です)
ゲームの達人になるには、ゲームのルール知り、ゲームとツールを愛し、何よりも、自分が主人公であるべきなのです。
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