「愚者」の旅、どこに向かい、何を目的とするか?

先日、NHKで「サン・チャゴ・デ・コンポステーラ」の巡礼路の番組がありました。

サン・チャゴ・デ・コンポステーラとは、スペインの西端に位置し、サンチャゴ、つまり聖ヤコブ(イエス・キリストの12使徒の一人)を祀る大聖堂のある町で、そこまで至る巡礼の旅路が、キリスト教的な意味を超えて、今や世界遺産として、世界中から多くの人が訪れるルートとなっています。

昔の巡礼は、今よりもはるかに過酷な旅だったと思いますが、現代の巡礼者も、決して楽なわけではないでしょう。距離的にも、長いルートはおよそ1500kもあり、並大抵なことで完遂できません。

番組ではその大変さも放映されていましたが、同時に、途中の宿や、同じ巡礼路を歩く人たちの助け合いの姿も映し出され、巡礼路が孤独なだけの場所ではないことが表されていました。

現代において、巡礼を志す人は、何も宗教的な意味合いからだけとは限りません。

このカミーノと呼ばれる巡礼路においてもそれは顕著なようで、番組では、フランスでレストランを経営していたものの、それに忙殺され、ついには倒れてしまい、自分とこれまでの生活スタイルを見直すためにここにやってきという人、台湾人の女性で、ヨーロッパにワーキングホリデーに訪れ、巡礼路の情報を知って、何となくチャレンジしてみたという方、離婚して孤独で一文無しになった女性の再生の旅、父子の親子旅で、確かブラジルから来たという人などの紹介がありました。

どの人も、人生に何かの転機を迎えた人々で、巡礼という日常とは異質な時間と場所を選択されたのでした。

日常は日常で大切な時間ではありますが、ともすれば、私たちはそれに埋没し、時には精神や肉体を酷使して、ただ一日一日、惰性的に、義務的に過ごしてしまいます。

だからこそ、昔から、日常に代わる非日常的な時間や空間に自分をさらす、追い込む、転換(脱出)するような機会を課していたものです。

それは厳しいやり方もあれば、楽しいやり方もありました。

例えば、日本のムラにおけるお祭りなども、日常と非日常の切り替えのひとつの方法と言えました。

一方、「」というのは、空間的にも時間的にも、私たちを異質な世界に誘ってくれます。それは楽しいやり方での、非日常体験とも言えますが、決して旅は楽なことだけではありません。

厳しい旅であればあるほど、それは私たちを成長させ、知見や経験を広げ、意識を拡大させます。国内旅行よりも、海外旅行のほうが一般的に強烈で、常識を覆すことが多いのは、そうした理由によります。

かつては、「自分探しの旅」ということが流行ったこともあります。

コロナ禍以前だと、まだそうした目的で日本中、世界中を旅していた人は多かったでしょうし、今でも、YouTubeなどの題材として、旅的な非日常動画は人気でもあり、自ら、全国を回って撮影している人も少なくありません。

彼ら彼女たちは、きっと旅をしながら、楽しみつつも、苦労も多く、元の場所に戻って来た時、自分を変えたものとして、一生の思い出となったり、経験談として、皆に聞かせたりすることになるでしょう。

ところで、マルセイユタロットには「愚者」というカードがあります。マルセイユタロット以外のタロットにも、もちろん「愚者」というカードはあるのですが、図像を比べてみればわかりますが、いかにも旅、旅姿をしているのは、マルセイユ版の「愚者」が顕著でしょう。

例えば、ウェイト版(ライダー版)の「愚者」は、崖の上に夢見るような感じでとても危うい感じで描かれているのに対し、マルセイユ版の「愚者」は、足取りはしっかりしており、杖をきちんとついて、顔は上向きですが、目標に向かって意思を持って歩いているように見えます。

「愚者」と聞くと、まさに愚か者で、フワフワしているイメージですが、実のところ、あまりフラフラとした印象ではない感じの図像が、マルセイユ版の「愚者」となっています。

このマルセイユ版の「愚者」は、夢見る夢男くんや夢子さんというより、強い意志と目的をもって、しかしながら緊張せず、楽観的なものも持ち合わせながら、歩みを進めているように見えます。

いかにも旅姿らしい旅人ということで、旅をしていることは確かでしょうが、先述したように、ある目的を有している感じが強く、その視線や体の方向に意味があるように見えます。

すでに、カモワン流やユング派でマルセイユタロット研究家の方から提示されているように、「愚者」は大アルカナを旅する人と目されています。

従って、象徴的に言えば、一番最高度の数を持つ「世界」のカードが目標となっていると考えることもできますが、同時に、大アルカナすべてを旅したい、全部自由に回りたいという気持ちも、「愚者」にはあるかもしれません。

普通に考えれば、数の順に旅していくように思えますが、彼の旅の方法や目的によっては、数には関係していても、独特な法則によって、一見バラバラに見えるかのような巡り方もあるかもしれません。そういう余地や自由さを、マルセイユ版の「愚者」からは感じさせます。

さきほど、旅は非日常を味わうにはよい方法であることは述べましたが、これは、実際に旅するということだけではなく、心の旅路というように、内面が(を)旅していると見ることも可能なのです。

いやむ、むしろ究極的には、私たちは、実は場所など移動しておらず、意識が移り変わっているだけで、周囲の景色が映像のように映し出されているかもしれないのです。いわば、バーチャルな旅みたいなものです。

もし自分の周囲にスクリーン映像があり、自らは足踏みのように動かし、景色自体は移動しているように映し出されると、かなり精巧に装置ができていると、実際に自分は(場所も)移動していると錯覚を起こすことでしょう。

このことは、私たちが動いているのか、周囲が動いているのか、どちらかわからないことを示し、移動というものは、実は相対的なものという考えにも至るのです。

すると、重要なのは、内面の旅であることがわかります。

この内面の旅を、マルセイユタロットは「愚者」とともに、その他のカードによって象徴させます。

私たちは、タロットによって、自分が変化したような体験、言い換えると、それぞれのカードに自分自身が変身する体験を味わうことができます。

しかし、「愚者」としての自分は実は変わっていないのです。まるで着せ替え人形のように、ほかのカードという服を着るようなものでもあります。

それでも、その服を着てみないとわからないことがあります。

通常では、人生の実体験から省察することで、この体験をしますが、タロットを学習していると、先回りしたり、自分が実際には体験していないことでも本質的な世界に入って、それに近い感覚を得たりすることができます。

それはまた、意識においての巡礼なのです。

巡礼の番組では、孤独のように見えて、巡礼者のサポート体制によって、助け合って、かえって生きる力、ゴールしていく気力を回復していく様が放映されていました。最終的には神の存在を感じ、まさに神のご加護のもとにいる自分(一人ではない自分)を意識したかもしれません。

これと同様、タロットによる意識の巡礼路も、一見孤独な作業のようでいて、同志がいたり、タロットの世界からのサポートがあったりして、助けられながら、進んでいきます。

逆を言えば、巡礼は、孤独になることで、孤独ではないことを知る旅と言えます。

サン・チャゴ・デ・コンポステーラの巡礼路では、ゴールは「サン・チャゴ・デ・コンポステーラ」の町の大聖堂ですが、タロットの巡礼のゴールは、いったいどこになるのでしょうか?

それは「世界」のカードかもしれませんが、地図上とか、カードにあるのではなく、あなた自身にある「世界」なのです。いわば、あなたの中に大聖堂はあります。

ところで、「愚者」には犬のような動物が付き添っているようにも見えます。

この動物はスピリットとしても表され、「世界」のカードにおいては、四つの生き物にも関係するでしょう。「オズの魔法使い」や「西遊記」なども、主人公と従者の形で、ある「旅」を象徴しているように見えます。

もちろん、あなた自身は、その主人公となって、旅を志し、本当の目的地を目指していくことになるです。

しかし、幸せの青い鳥ではありませんが、求めるものはすでにあり、ただその発見に至るために、プロセスとしての旅が必要なのです。

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