タロットにおける視線、目の意味
マルセイユタロットには、カードに描かれている人物の視線が、比較的はっきりしています。
私自身、カモワンタロットから入った者なので、そのカモワン流では、カード人物の視線を重視した展開や、リーディングをすることで、自然、カードの視線については敏感になりました。
カードを観察すると、厳密には視線と言っても、微妙な違いがあるのに気付きますし、それらにはきちんと意味が込められていると感じます。(カモワン流で伝えられていること以外の意味もあると思っています)
それはさておき、私たち人間においても、視線方向というのは意味を持ちます。
普通は意識的に何かを見る時に視線は向けるものと考えますが、無意識的にも視線を向けていることもあります。
この無意識の視線の向け方が意外に重要なのではないかと思います。
心理療法やNLPの世界でも、視線の向け方には意味があるとされており、視線の動きによって意識を変えることは、普通に行われています。
おそらく眼球と脳には密接な関係があり、その動かし方、働きによっては、心や意識を変化させたり、逆に縛ったりすることもできるのではないかと予想されます。
そういえば、漫画・アニメのナルトに出てくる「うちは一族」の特殊な目は、脳に強烈なストレスがかかることで、特殊な目の力が開眼するという設定でした。
いわゆる「目力・めぢから」と呼ばれるものは、古くから知られており、陰謀論でおなじみのプロビデンスの目(これ自体は陰謀による支配の目ではありませんが)も、神の全能なる力を示す目ということで、目の特別な力を象徴しているように思いますし、エジプトのホルス神の目として、ウジャトとラーの目の力が伝えられています。
ということで、視線、目をどこに向けるのか、あるいはどこに向けられているのかということは、実際的にも、象徴的にも大事になることがあると、マルセイユタロットを見ると感じます。
普段、自分はどこを見ているのか、何にもっとも視線を向けているのか、これを調べてみると、自分の関心や結果を出そうしている分野にまでわかるかもしれません。
当たり前ですが、無関心なものには視線は注がれず、「視線がくぎ付け」という言葉があるように、強い注目があれば、視線はそこに向きます。
ということは、自分の関心の中心は視線の先と、注がれる時間の量にあると言えます。これは他人もそうでしょう。
しかしながら、最初に無意識の視線があると述べたように、自覚していない視線の向け方もあるので、それは無意識の関心ともいえ、自分ではない他人から確認してもらう必要があるかもしれません。
いずれにしても、たとえ無意識であっても、視線は関心や注目を示していると言えますから、自覚はなくても、あなたはそれに何らかの強い関心があるのだと言えます。
ただし、関心・注目と言っても、ポジティブなものだけとは限りません。相手に向ける敵意とか嫉妬とか執着など、ネガティブな理由もあります。
さらには、無意識のうちに縛られてしまっている関心(トラウマや何かの固定観念)もあり、やっかいなのは、他人から、意図的もしくは無自覚に植え付けられた印象があり、これは簡単に言えば「呪い」「呪縛」ということになります。
無意識の場合、見えない領域にそれはかけられますので、サイキック能力者とか呪術師などは、シンボルや使役する心霊的存在などを使い、いゆわる「呪(しゅ)」をかけます。
つまりは、対象者の視線を、無意識のうちに常にそれに向けさせるような話です。実際の意識としては、普通に対象や関心を見て生活をしているわけですが、呪縛があると、実は見ているようで見ていなく、無意識の視線(力のある視線)は別に向けられていると言ってもいい状態になります。
そう、タロット的に言えるのは、私たちの視線には、力のある視線と力のない視線があるということです。
通常は、その両方があいまって、私ちは物事を成し遂げていくのですが、残念ながら、視線によっては、力のあるものとないものとが分離し、実行力のない視線ばかりを使っていることがあります。
グノーシス的には、神の視線と自分の視線を一致させるのが、視線に力を復活させることになりますが、これらは特に、「力」から「審判」「世界に」至る過程で描かれていると言ってもよいです。
いわゆる第三の目の開眼も、視線に真の意味で力を宿らせることにつながると思われますし、そのことは、第三の目をいろいろなカードで象徴させているマルセイユタロットからも指摘できることです。
「太陽」や「月」になぜ視線(人物の顔)があるのかも、人の視線の力と関係していると想像されます。
とにかく、視線については、一般的には普段、ほとんど意識していないでしょうけれども、マルセイユタロットを扱っていると、視線について、文字通り注視することになり、意識的な視線と、無意識的な視線、それぞれの力について、思いを馳せるようになるでしょう。
そして、何事かを達成したい場合、よく言われるように、それに向けて視線が向くように、それがよく視線に入るように工夫する必要がありますが、反面、無意識に縛られている視線のほうも重要で、いくら視線に望ましいものを常に入れようとしても、無意識に注がれている視線の方向性によって、本当の視線は力を失っていますので、物事は現実化しにくいと言えます。
心理的に言いますと、自分の心が本当に向けている的(まと)が何なのかということで、囚われているもの、こだわっているもの、不安にさせたり、行動にブロックがかかったり、無意識のうちに取ってしまったりする行為など、その要因を探って解除させることであり、そのほうが、実は重要な場合もあるのです。
幸い、マルセイユタロットは、すでに述べたように、視線がはっきりしているため、使う技術によっては、意識と無意識の視線の方向を推測することが可能です。
無意識の視線とその的(まと)についても、完全ではないにしても、探索がかなりできることになります。
同じタロットではあっても、視線がはっきりしていないカード、視線はあっても、それに象徴システムとして機能させていない(つまり方向性などに、意味がきちんとつけられていない)ものは、視線の機能はあまり使えないことになります。
ここに、マルセイユタロットの良さのひとつがあげられるでしょう。
結局、言い方を換えれば、真実の視線(目)を取り戻すことが、マルセイユタロットに描かれている目的なのかもしれません。
覚醒と言ってしまえば簡単ですが、「目」は眠っている(眠らされている)ことと、起きていること(自ら起きること)、いわば、無明であることと、覚醒して悟ること(光明を得ていること)の違いとしてよく象徴されますので、目のシンボル図については、それこそ“注目”してみるとよいでしょう。
コメントを残す