タロットリーディングに才能は必要か?
タロットリーディングに才能は必要か?
というタイトルですが・・・結論から言いますと、どちらとも言えないという、またあやふやなものですみませんが、私自身はそう思います。
ところで、この世(現実)は残酷な部分があり、いくら平等を訴えても、あらゆるものに違いがあり、だからこそ、皆同じというわけには行きません。不公平な世界というのが実情でしょう。
逆に言えば、だからこそ、ルールや法律を決め、皆が同じようになれるよう(権利が受けられたり、扱いが等しくなったりするよう)にしているわけです。
話はそれますが、現実において生きやすくするためには、違いがあるのがこの世であり、そういう世界になっているのだとまず認めることからだと思います。
そのうえで、差別とか理不尽なことをいかに是正するか、皆が人として等しく権利を享受できるかを考えたいです。簡単に言えば、区別を認めて差別は変えていくみたいなことでしょうか。
さらにスピリチュアル的に言えば、違いというのは演出でしかなく、大元までたどれば、違いを作り出している装置と言いますか、仕掛けに気づくようになっていると考えられます。
ただし、人として現実空間に生きている間は、なかなかそのことは実感できないよう、極めて巧妙で精巧な作りの世界になっているのだと想像できます。
結局、この演出世界を体験する何らかの宇宙的必要(必然)性か、自分の真の意思のようなものによって、違いある世界を味わっているのだと言えるかもしれません。
話は戻りますが、そういうわけで、みんな違った才能・個性があるようにできており、その程度・質・表現等、まさに千差万別です。
当然、(三次元における)タロットに関しても同様で、誰もがまったく同じに読む才能が最初から揃っているわけではなく、また、みんなが平等にリーディングできる力となる方法もないと言えます。(あとで述べますが、ないとも完全には言えない・・・のですが)
シビアですが、そう考えますと、元からタロット(リーディング)に才能のある人と、あまりない人という差はあるのが普通でしょう。
私は、タロットは独学ではなく、スクールに入って学びましたので、一緒に学んだから方々を見ております。
その中で、やはり、タロットに向いているといいますか、すごく最初からセンスのある人と、いまひとつである人、という差はあったように思います。
そして自分がタロットを教えるようになって見ても、ほかの人に比べてタロットセンスが初めから高い人、そうでない人という違いはあるように感じます。
今までとても印象的だったのは、まったくタロットを習ったことがない、自分で学んだこともないという人が、入門コース的な簡単な内容を少し伝えただけで、かなりサクサクとカードを読まれた方がいました。(コンビネーション的なものも含めてです)
ところが、世の中、不思議なもので、この方はそれほどタロットを続けて行く気はなかったようで、それっきりのご縁でしたが、あのまま本格的にタロットリーディングの学習と実践を続けられていたら、すばらしいタロットリーダーになっていたのではないかと思います。もしかしたら、別の種類のタロットを学ばれて、使っていらっしゃるのかもしれませんが。
このように、才能・センスとの違いは、どうしてもあります。
では、努力によって元ある才能を凌駕することができるのか? よくスポーツや勉強の世界で言われることですが、これもまた難しいところでしょう。
そもそも、すごい努力ができるというのも才能のひとつだと私は考えています。
ただ、タロットの場合、それほど才能・センスに依存する分野ではないと思います。
何を隠そう、私はタロットリーディングのセンスは凡人です。(苦笑)
最初にスクールで学んだ同期生たちに比べ、おそらく一番、タロットが読めなかった人物だと自覚しております。
かといって、そこから人一倍努力した、というようなスポ根ものみたいな話もありません。(笑)
それでも、私の場合、タロットのセンスはあまりなかったかもしれませんが、センスを磨く工夫をすること(トレーニングによるコツの習得)には、もしかしたら恵まれていたのかもしれません。そして、習ったマルセイユタロットが好きということに変わりなかったことが、継続していく力になっています。(やればやるとほど好きになっていました)
いくら才能やセンスがあっても、その対象のことが嫌いだったり、興味がなかったりすれば、続けて行くことは難しいでしょう。すると、熱心にコツコツと長くやっていく人に比べると、ウサギと亀ではありませんが、やがて追い抜かれることになります。
この、対象に対しての好ましい感情や情熱が持てるかということは、才能よりも重大な意味があると考えられます。
さらに、人には誰でも何かしら、よいところはあるものです。
そのよいところをもって、訓練していくことで、ある程度、才能をもともと持つ人に近づけることはできると思います。
タロットの場合、タロットの知識・象徴性に興味と関心があり、タロットリーディングはそれほどでもないという学びのタイプの人もいます。こういう人には、センスとか才能はあまり関係ないでしょう。
ですから、タロットにおける才能・センスが活かせるというのは、タロットリーディングの分野がメインです。
それでも、そのタロットリーディングにおいても、知識と論理で読んでいく方法と、直感・感覚・センスで読んでいくものとがあります。
才能・センスのある人は、後者の力を行使していく傾向が強く、だからこそ、センスの薄い人(普通の人)は、前者に力を入れるとよいのです。
ただし、知識と言っても、カードの意味を丸暗記するような方法ではありません。それではスポーツにおいては、あまりよくないコーチの言われるままに根性トレーニングするのと同じです。そのやり方では、応用や、さらに伸ばしていく力も出て来ないです。
才能ある人に対抗するためには、教えられることだけではなく、自分が思考し、実践していく力を身に着ける必要があります。
そのため、タロットにおいても意味を丸暗記するようなやり方は、あまりお勧めできるものではありません。(暗記という方法自体は悪いわけではありませんが)
カードを論理性をもって読むことができるようになれば、能力にあまり左右されず、安定したリーディングの力を発揮することができます。
しかしながら、タロットの種類によっては、論理性があまり通用しないと言いますか、そのタロット自体が論理性に欠けているものもあります。それでは、意味がありません。(そのため、論理性に欠けるタロットには、イメージや感覚の力で読む傾向になるのです)
論理性をもってリーディング技術を上げたり、安定したりできるのは、そもそもリーディングに使うタロット自体に、しっかりとした論理性(合理性)が整っていてこそです。
どうも、タロットは感覚の世界の産物と思われ過ぎているので、タロットカードのシステム・論理性が軽視されているところがあり、新しい創作系タロットのほとんどは、作者の感覚で作られていることが多いので、タロット全体としてバラバラな印象があります。
たとえイメージの世界、元の世界での論理性があったものでも、それを受信した方に、論理・オーダー・システムの全容と個別の仕組みが包括的にわかっていなければ、それを現実のカードとして精巧に表現することは難しいです。
これはマルセイユタロットで言えば、「斎王」と「法皇」(大アルカナナンバー2と5)のセットによってできることなのです。「斎王」のみ、「法皇」のみでは困難です。(人間が二人必要だと言っているのではなく、そういう二面の性質が合わさる必要があると述べています)
マルセイユタロットのある版の場合は、この点、極めて精密にできており、それが実際に表現されているカードなので、論理性をもってリーディングする技術を学べば、才能・センスに頼る読み方を超えることも可能だと思います。
そういう意味では、こと、そのタロットに関しては、才能はあまり必要ないと言えるでしょう。(論理的に読むこと自体に才能を見る、あるいは向き不向き考える場合は、また別ですが)
しかし、先ほども述べたように、タロットは一方で、感覚・感性というものも大事な読みの力となります。
これがもともと優れている才能とセンスのある人は、極端なことを言えば、学習をほとんどしなくても、リーディングはできるでしょう。
タロットのすごさは、学ばなくても読める人を生み出す力そのものがあることです。人の才能を引き出す力と言い換えてもよいでしょうか。
とは言え、そういう人も、人間ですから、才能はあっても、いつも安定した力が発揮できるとは限りません。体調や環境によって左右れることも大きいです。
ですから、それを補うためにも、やはり論理性での読みも学んでおいたほうがよいです。才能に頼るだけでは、エネルギーの消費も激しく、タロットリーディングに疲れてしまいます。
それに、センスのある人は、好き嫌いの感情が強いところがある人が多い気がします。(これには理由があるのですが、ここでは省きます)
タロットが好きである必要性は説きましたが、リーディングそのものに、ただ感情的に取り組んでいては、やがて飽きたり、興味を失ったりします。ある時はとても面白くても、別の時は嫌になり、もういいや、みたいになるわけです。
ですから、タロットリーディングをする人は、使命感のようなもの、何のためにやるのかという意味付けを自分で作っておく(持っておく)ことが重要です。
まだまだ才能・センスとタロットリーディングについて書きたいことはありますが、長くなりましので、今日はこのあたりにしておきます。
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