タロットカードの(示す)正しさ

タロットを扱う者や、タロットリーダーとしては、タロットが示すものの解釈の前に、その信頼性を自分にどう置くかということは重要だと考えます。

言ってみれば、タロットは正しいのか正しくないのかという問題にも関係してきます。

この問題を、さらに、「タロット自体が正しいのかどうか」というテーマと、もうひとつ、「タロットが示すことは正しいのかどうか」というものに分けて考えることもできると思います。

また、根本的なこと、そもそも論として、正しいというのはどういうことか?ということも無視できません。

実は、最初に考えなければならないのは、ここ(タロットの示す正しさというもの)ではないかとさえ思います。

しかしながら、タロットを使っている者でも、あまりこういうことは考えないのではと想像します。だからこそ、改めて「考えて」みるのです。

とりあえず、タロットが示すことは正しい、タロットは正しいのだという前提でないと、占いもリーディングもできません。

では、その正しさとはどういう意味で正しいのでしょうか?

実はこのような問いの時、反対の意味である「正しくないこと」「間違っていること」「悪いこと」というものを考えますと、その「正しさ」についてわかってくることがあります。

ですから、タロットリーダーの方、タロット占い師の方、今一度、自分は何をもって「正しい」としているのかを、逆の、正しくないこと、あるいは、よくないことも考えてみて、その線引きを想像するとよいです。

すると、多くの人は、常識的で一般的、いわば誰もが思う善悪とか、成功失敗とか、幸不幸の基準で見ていることに気が付くのではないかと思います。

とは言え、その一般的とか、多くの人が思う常識的なことというのは、集合的なものなので、どれかひとつとか、明確な基準・ルールがあるわけではありません。なんとなくのような漠然としたものです。

ということは、漠然とした基準でタロット(の示す)ものを判断しているということになります。

「いや、私は違います、ちゃんとした基準をもっています」という人もいるかもしれません。

例えば、みんなが思う一般的な幸せ・不幸というものではなく、その人個人(タロットを引く人)が思う幸せとか不幸を基準にしているというような方もあるでしょう。

いずれにしても、タロットが決めるのではなく、人(特にタロットを扱う者)が基準を決めていることには変わりありません。

タロットはただカードとしての図柄を示すのみです。その解釈は、結局、人(と状況)がしています。

もし「13」のようなカードが出て(本当はこういう解釈はやらないとしても)、死と関係すると見て、戦争中ならば、「どんどん相手兵士を殺せます、あなたが兵士であるなら出世します」と、幸運でよいことのように読める場合もあれば、平和な時には、「たくさんの人が伝染病で亡くなる危険があり、大変悪い事態を告げています」と、ネガティブで不幸な解釈をすることもあるかもしれません。

このように、価値観や幸不幸、善悪などの概念は、時代や人、状況によって変化しますので、確かに普遍的に近い良し悪しはあるかもしれませんが、やはり、正しさとか良さ(その反対悪いこと、間違い)の基準はあやふやなものと言わざるをえません。

こうなると、カードの示唆を読むというのは、あまり意味がないのではないか、ルールも何もあったものではないという感じになります。究極的には、人が決めているのなら、カードを引く必要もないとさえ思う人もいるかもしれません。

ここで逆転の発想をします。

カードの正しさとか、カードが示す基準を考えて行ってもキリがないと言いますか、かなり難題で、ひとつにはなかなか決められないものと考えられますから、そこは一度置いておきます。(そのことはあえて考えないようにする)

そのうえで、自分とカードを契約のような形で、両者の間にルールや基準を作ります。(契約を結ぶような感じ)

言ってみれば、善悪や幸不幸、何が正しくて何がよくないのか(問題なのか、問題でないのか)の基準を、カードリーダー、タロットを扱う者が決めるわけです。

その基準をもとに、カードを出してください(カード側からするとそのように出しますよ)という契約です。

ですから、タロットリーダー側の考えが重要になり、タロットリーダーの想定する良し悪し、問題か問題でないのかという基準がカードを動かすわけです。

ただ、この反対、逆方向みたいなこともあり、もともとカードに示されているある基準(それは教義や思想、目的と言っていいもの)を教えられる(学ぶ)ことで、自分の中にその基準を入れてルール化し、それを今度はタロットカード側に投影、あてはめて(引いたカードを)解釈するというパターンもあります。

しかし、これも「ある教義」のようなものをカードにあてはめ解釈したものなので、結局は、人の解釈ありきということにはなりますが。

私の場合は、マルセイユタロットに込められている(と言われる)ある思想、目的をもとにしたシステムを基準に、カードを解釈するようにしていますので、それが基準と言えば基準です。

その基準は、一般的な意味での善悪とか幸不幸、成功失敗概念とは異なるなところがあります。

ですから、今の時代の普遍的に言われている、あるいは伝統的に示されてきた、運不運、幸不幸、成功失敗の基準にした占い的解釈とは違う場合があるのです。

このこともあり、私は占い師ではないと申し上げています。

ともあれ、それでも、タロットを信頼しないことには、どの方法・考えを採り入れるにしろ、タロットリーディングや、タロットを使った技術は成立しません。

タロットをなぜ信頼するのか、信用できるのか?という問いまでつきつめられると、もはや信仰に近いものと言わざるを得なく(根拠がないわけではないですが、今の科学的なものとは言えませんので)なります。

ただし、タロットによって自他の人生を操られるのではなく(選択や決定を依存してしまうのではなく)、あくまでひとつの情報として扱ったり、様々な角度から物事を見たりするためのツールとして見るのがよいかと思います。

しかしながら、ツールという言い方にはとどまらない、深淵で神秘なところもあるのがタロットてす。

タロットは人が作ったものではあるものの、ことマルセイユタロットにおいては、特定の設計者の名に帰せられるわけではなく(版名はありますが、必ずしも、いち個人が大元のデザインを完成させたとは言えないところがあります)、ある叡智集団によるものと想定できます。

叡智と書いたように、その受けた啓示と製作過程においては、通常意識を超えたところにあったとも考えられます。

ですから、もしタロット自体に、何かの正しさや基準があるとするのなら、それは私たちの人間、常識レベルのものではない高次のルールや基準の可能性もあるかもしれません。

この記事では、自分(タロットリーダー)側が基準を決めると言いましたが、その基準が、いつしか向こう側(タロットが根本的に示す高いレベルの基準)に引っ張り上げられ、自分の中でのルールが変わることもあり得ます。

その時、今までやっていたカードの読み方、解釈に違和感を覚えたり、はっきりどう読めばよいのかわからなくなったりするでしょう。サクサク読めている時が、必ずしも、よいとはいい難い時もあるのです。

つまりそれは、自分の思っていた正しさなどへの、価値基準の揺らぎが起こっているとも言えるのです。

その経験を何度かしていくと、タロットカードは、私たちの中にある、忘れられていたり、普段、外から常識的に思いこまされていたりした基準やルールを、中立に戻し、回復させるためにあるのではないかと思えてきます。

これは言い換えれば、私たちは地上性のルールに基づく生き物、生き方をする傾向にありますが、一方で、天上性のルールによる生き方もあるのだということ、それが永遠や見えない部分とつながっていること、また自分一人の人生ではない分もあること(自分が存在する見えない部分とその理由)などに気づくプロセスにもなってくるのだと思います。

究極的には正しさなんてものはない(正しいのは、正しくないという概念が存在して初めて認識できるものですから)のですが、レベルの低い意味の「正しいこと・正しくないこと」に囚われているのもまずく、マルセイユタロットで言いますと、「正義」の象徴とは何かを考えることで、自分や世界を(高次の基準に)変えていくこともできるのだと思うところです。

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