大アルカナの数と絵の象徴性

すでに多くの人に知れ渡っていることですが、タロットの大アルカナナンバー自体、(あらゆる)成長や発展の象徴になっています。

簡単に言えば、大アルカナの数順が、そののま成長のプロセスだということです。

ただ、例えば、ウェイト版とマルセイユ版では、大アルカナの数が違います。具体的には、「正義」と「力」の数です。

ですから、すべてのタロットカードが、数順の通り進むのが成長や発展を示しているのではないとも考えられます。

しかしながら、ことマルセイユタロットにおいては、明らかに、大アルカナにおいて、数の進化がすなわち個人や全体の進化とリンクしているというのは言えることだ思います。

ここで、私は個人と全体と言いましたが、この点も重要なところです。

個人と全体は基本的にリンクすると言いますか、根本的には同じシステムや構造で進化していくと考えられるのですが、現実問題として、このブログで何度も述べているように、実際には皆、個人差、一人一人違う個性を持っています。

ですから、全体としては言えることでも、個人によって違って来るようなところがあり、それがまた個人表現が許されているこの世界の仕組みの面白さ(または苦しみ)であると言えます。

言わば、万人に共通の大まかな地図を与えられながらも、個人個人では、通り道とかやり方の異なる地図もあるよという感じです。

言い換えれば、個人の地図は自分で調べ、書き込み、創り上げていくものでもあり、創作可能な、まさにオリジナルマップと言えましょう。

しかし、やはり大目的は忘れないように、抽象的ながらも、目指すべき方向性は全体として共通しているというのが、タロットの大アルカナの絵図に示されているようにも思います。

ということで、個人的に見た場合は、きれいに数順に進むことが必ずしもよいわけではなく、行きつ戻りつ、時にジャンプしたり、抜けたりすることもあり得ると思え、自分がどの位置にいるのかは、人それぞれだと言えます。

また、誰かにとっての「世界」の象徴は、誰かにとっての「力」レベルということもあるかもしれず、単純に数が上のカードが優れているという考えは禁物です。

しかし、数の順に注目してみると、私たちの視点は、ふたつの方向性で見ることが可能になってきます。

ひとつは、普通に、数が増加していく方向性、「手品師」から「世界」への視点です。

数で言えば、1から21へという、ある意味、正道・王道な見方です。

そして、もうひとつはこの逆で、「世界」から「手品師」に向けての視点です。

数にすると、21から1に減少していく方向性になります。

前者(1から21の方向性)は説明しなくてもわかると思いますが、普通に、加増していくような視点・考えになります。

経験や体験、あるいは知識などを、どんどん蓄積していく流れであり、まさに学び・進展という感じがしますね。これが、普通に皆さんが思っている成長性でしょうし、自分が当事者の主観的な人生の進みと言え、年齢的には若さをイメージさせます。

一方、後者(21から1)は、むしろゴールから出発点を見つめるような視点であり、振り返るような印象が強いです。年齢的に言えば、人生の終盤で、老境におり、自分の人生を回顧しているような感じですよね。

すると、それは確かに自分の人生への視点なのですが、何か他人の人生を見ているような、客観的視点にもなっていると思います。

そして、ここが、マルセイユタロットに込められた思想の見方とも関係するのですが、何かを蓄積して成長するというのではなく、すでに自分はすべてを知っていて、それを思い出すための人生(成長)であったと、この逆方向の視点だと気づいてくるのです。

そうすると、壮大な映画と言いますか、ひとつりエンターティメント、ゲームのような感じに人生というもののビジョンが変わってきます。

人生で楽しいこと、苦しいこと、様々に私たちは体験しますし、自分を成長させようと努力したり、とにかく生きるのに必死だったり、時には怠惰に無意味に過ごしたりします。

「世界」から「手品師」に見る視点だと、人生の体験のどれにも、いいも悪いもなく、ただそのような経験があった、してきたということになりますし、実は成長も発展も後退も減少もしていなくて、ずっと完全なる自分が見守っていたということになり、何らかの形で、完全性は忘却する世の中に来ていたものの、振り返ってみれば、その忘却を少しずつ思い出す(取り返す)ためのゲームにチャレンジしていたかもしれないと思えるようになります。

なかなか、老年にならないと獲得できない視点かもしれませんが、マルセイユタロットを並べて、「世界」から逆の順序で、大アルカナを見つめてみると、このような視点も年齢にかかわらず、起こって来るかもしれません。

それからのこの視点(「世界」から見る視点)に近いものになりますが、自分が「愚者」になって、大アルカナ全体を投影図のように見つめると、自分は何になってもよいのだと気づきます。

これは、多くの自己実現を唱える方の話とは真逆なものかもしれませんが、自分に肯定とか否定とかの考えをしなくても、本当は、自分は大アルカナでいうところの「愚者」なのだと知ると、実は何者でもなかったのだいうことになってきます。

「愚者」は数を持ちません。ということは、どんな数のカードでもなく、また逆に、どんな数のカードにもなることができます。

数の順番通りに成長していく、蓄積して大きくなっていくこともできますし、どれか、なりたいカードの象徴性に、自分を置くこともできます。また先述したように、「世界」から見直す視点のように、完全なる自分に、あえてハンディを持つように、忘却の旅をしていると見ることもできるわけです。

ということは、一言で言えば、自由なのです。

ここに自己の肯定や否定という「二元」を考えれば考えるほど、「愚者」ではなくなってきて、この大アルカナの中で、自分が決めた「よい・悪い」という基準でカードを見て、その世界観に振り回されていること(自分)に気づくかもしれません。

幸不幸も、一般的な概念があることは認めても、やはり、人それぞれであり、自分が「愚者」であるのなら、その幸せ感もまた自由なのです。

幸せを、数順をたどるように追い求めてもよいでしょうし、逆に、待っていたり、振り返ったりしていると、実は幸せだったと感じるようなものもあるでしょうし、本当に何でもいいと思います。

私自身、「何者でもない感覚」に悩まされてきました。どこにも居場所がないとか、何か楽しんていても、どこか空虚な感じが常にある感覚とか、何か浮いた感じというものがありました。

しかし、改めて、マルセイユタロットを見て、自分は「愚者」なのだということを知ると、それはむしろ当然なのかとさえ、最近は思ってきています。ここでまた、「それでいい」とか、「いやいや、それは悪い状態」とか考えると、また余計に悩むことになるでしょう。

ありのままとか、そのままの自分でよかったんだ・・・という言い方は、自己への心理的な肯定感としてよく例えに出されますが、もちろん、それはとても大事な考えではあるものの、「そういう感覚に、必ずならねば幸せになれない」とか、「自己肯定こそが幸せの近道」と絶対的に思う必要もないと感じます。

タロット的には、「愚者」であること、ただそれだけを思い、振り返る視点もよし、順を追って成長していく視点もよしだとすると、ずいぶん楽になるのではないでしょうか。

ただ、「愚者」には犬のような存在も描かれています。この犬の解釈はいろいろとできますが、とにかく言えることは、「愚者」は一人ではないということです。

ですから、あなたが「愚者」である限り、孤独ではありません。

もし孤独を感じているのであれば、この「愚者」の犬の存在を感じてみるとよく、それは実際の人物である場合もあれば、あなたを支える教えとか思想のこともあったり、目標的な世界とか人物を含んでいる存在のこともあったりするでしょう。(マルセイユタロットの場合は、この犬の色が重要なこともあります)

そしてこの犬の中身は、入れ替わることもあります。(例えば、あなたを支える人物とかパートナーが変わるとか)

結局のところ、「愚者」としての自分が、まるで一種のゲームを楽しむかのように、(錬金術の文言にもありますが)自分をあえて分けて、また再構成する(ひとつに戻す、統合する)、そういう旅(遊び)が、大アルカナの象徴なのかもしれません。

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