世界や人生に意味はあるのか?
このテーマは、何回か取り上げたことがあるものです。
世間でも、「(明確に)意味はある」という考えと、「意味はない」というものに二分され、様々な意見があるようです。
私自身は、マルセイユタロットを見ていると、どちらもありで、どちらでも言えるという立場を取っています。
マルセイユタロットの大アルカナで例えると、ある意味、「愚者」と「ほかのカードたち」という形になるでしょうか。
「愚者」を人物として見ると、彼自身、「世界や人生に意味はなんてないさ」というように答えるでしょう。(笑)
そしてまた、もしかすると彼は、「そうだね、もし意味があるとすれば、僕の行先そのものかな」と続けて言うかもしれません。
これは、「愚者」の旅に意味があるというより、その旅先・訪問先自体に何かの意味がつけられるという風に考えてみてください。つまり、訪問することに意味があるのではなく、その場所での経験に意味づけすることができるというものです。
訪れた場所で楽しい経験をしたのなら、そこは楽しむという意味、嫌なことや苦いことを体験したのなら、そこは苦痛の意味、何か学んだと思ったのなら、学びという意味があったという具合です。
結局、大きな次元・レベルで見れば、世界や人生に意味などないと言えそうですが、一人一人、個人個人にとっては、何かの意味をつけたり、見出したりすることはできるのです。その自由が許されているのが私たち人間と言えましょう。
ですから、自分の思いというものが世界や人生を意味づけるということになるわけてすが、面白いことに、私たちは自分一人で現実世界を生きているわけではありません。
また、考え方や環境も同じではなく、極端に言えばバラバラな世界です。
よって、他人から、あるいは様々な環境・状況から、私たちは影響を受けることになります。なかなか孤独に一人だけで生きることは難しいですから。
ということで、ほかから影響を受ける度に、自分の思いや考えも変わり、そのため、世界と人生に意味づけする内容も変容する可能性が高いです。
結局のところ、自分で意味づけしようとしても、周りの影響は多少なりとも受けるので、世界や人生の意味を自分一人では決められないということになります。
であるならば、やはり、世界と人生は、私たち全員によって意味づけられていると見ることができます。このことの意味は、まるでタロットカードが、一組全体によって成り立っているというのに似ています。
世界や人生には、究極的には意味はないですし、意味をみなくてもよいレベルがあると言えますが、現実的には意味を見出さないと生きづらくなるのも確かです。その意味自体も、自分と他者によって成り立っていることを思えば、いがみ合い、争うより、協力し、調和を意図したほうがよいと言えるのではないでしょうか。
さらに、たったひとつのこと、たった一人のこと、ほんのささいなことに救われる意味を見てもいいでしょうし、使命を持ったり、社会を改革するような大きな志を抱いたり、活動したりすることに意味を見出すのもまたありでしょう。
自分が演じている劇に実は意味はないのかもしれませんが、演じているうちに劇のテーマが決まってくるかもしれませんし、自分がこうだと決めてもよいわけです。
言わば、私たちは、マルセイユタロットの「愚者」そのものと言えるのです。
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