スポーツ観戦を例に

コロナ禍ですが、東京五輪が開催されています。

開催には賛否両論と言いますか、おそらく国内一般的には、反対者が多かったと推測されますが、いざ実際に開催されると、選手の頑張りに心を動かされ、やってよかったと思っている人も増えているように感じます。

まあ、人の意見はそれぞれですし、ここで開催の是非を問うことはしません。

ただ、何かを主張する時は、自分の言っているレベル(範疇)がどの度合いであるのかを自覚していないと、お互いに、いつまで経っても妥協点や理解点が見いだせなくなる危険性があります。

レベルの度合いとは、簡単に言えば、どの視点で述べているかということで、例えば、国レベルなのか、世界レベルなのか、個人の利益とか感情レベルでの話なのかというようなものです。

さて、話は変わりますが、スポーツ好きの人には反感があるかもしれませんが、五輪を機にあえて言いますが、スポーツを見る時間というのは、多くの人が、意外にたくさん費やしてしまっているということです。

実は私もサッカーが好きなので、サッカーの試合放送とか関連番組があれば見てしまいますが、よくよく考えれば、サッカーの場合でも90分の試合時間があり、前後半のアディショナルタイム(いわゆるかつてのロスタイム)とか、選手紹介などの報道時間、ハーフタイムなど合わせると、一試合で二時間は視聴に費やされます。

一方、人の人生の時間は限られています。

平均寿命は長くなりましたが、寿命も長くても100年くらいのものです。そこから考えると、スポーツ観戦で時間を使ってしまうのはいかがなものか?という見方もできるのです。

日本では、中高年に特に野球も人気ですが、野球の場合は試合時間はかなり長いです。そして試合もペナントレースでは毎日に近く行われます。そうなると、いったい、一生のうちでどれだけの観戦時間を消費しているかと思えば、相当なものと言えます。(昭和生まれで野球ファンの人だと、とんでもない時間になりそうです)

今、五輪で毎日各種目が中継されています。

中には一日中、テレビ観戦している人もいるかもしれません。試合そのものだけではなく、メダリストのインタビューとか、熱戦を振り返る映像とか、特番とかで、もっと時間は使っているでしょう。

一人一人の人生は、まさにその人の人生だから何をしようが勝手ですが、ちょっと冷静になってみれば、スポーツに限らず、私たちはいつの間にか、時間を使わされてしまっていることがたくさんあることに気づくかもしれません。

もちろん、たとえばスポーツ関係が生業(なりわい)になっていたり、自分もアスリートだからとか、そもそも趣味がスポーツ観戦だからということでは、スポーツを見る時間というのは、自分の価値に基づいて人生の時間を費やすので、無駄ではないと言えます。

※誤解なきように説明しますが、スポーツの価値を貶めたり、それが好きな人を批判していたりするのではありません(私自身もサッカーはじめ、いろいろとスポーツ観戦は好きです)。スポーツという例を通じて、人生の意味を考えるきっかけにしているだけです。

ところで、マルセイユタロットの大アルカナ22枚を、数の順に置いていく図は、結構知られています。(カモワン系では、タロットマンダラと称されています)

これを最後の数21を持つ「世界」のカードから見る視点と、最初の数である1を持つ「手品師」からの視点(もっというと、「愚者」からの視点でもありますが)のものとを比較する見方があります。

言ってみれば、最後から見るか、最初から見るか、あるいは長期的・全体的に見るか、その場その場の短期的視点で見るかの違いとも表現できます。

「世界」の最後から見るというのは、人生で例えると、一生を通して見る、死ぬ間際、あるいは死んでからわかる視点みたいなもので、「手品師」からとなると、普通に生きている流れの、その時その時の視点みたいなものと言えます。

すると、先述のスポーツ観戦の時間というのも、人生全体で見ればささいなことになるでしょうし、そういうのを見て過ごし、ワクワクしたり、がっくりしたりした人生も良かったと思えるかもしれません。

逆に、ああ、なんともったいないことをしたものだ、もっとやるべきことがあったのではないかと感じることもあるでしょう。

「手品師」視点の、その時その時の流れのひとつだと見ると、スポーツ観戦に熱中している自分というのはとても価値があり、楽しんでいる時間としてはよいものに見えます。

そもそも、その時の瞬間と言いますか、人生の流れの中の一部、継続中の時間なので、よいも悪いも感じていないというのが正しいかもしれません。

ですが、この視点にしても、終わってみれば、宿題を先にすべきだったとか、仕事が残っていたとかで反省する(笑)こともあるかもしれませんし、いいものを見た、選手から勇気をもらった、人生、努力は報われるんだと、生きる希望とか力が湧いてくることもあるでしょう。

ここで言いたいのは、良し悪しというものも、視点を変えれば変わって来るものであるということです。

また、視点を変えることで、今まで気づかなかったこと、常識だと思っていたことか実はそうでもなかったことに意識が向き、自分の中で反転した構造とか考察も生まれてくるということなのです。(「吊るし」のカードの象徴性であるとも言えます)

一番まずいのは、ただ惰性で与えられるものだけに反応してしまう、動物的奴隷人生と言えましょう。

私たちは人間性や神性を持つ存在でもあることを、思い出したいものです。

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