「運命の輪」から見る「運」

マルセイユタロットの「運命の輪

文字通り、運命を象徴するようなカードと言えますが、その絵柄の特殊性(他のカードに比べて絵的に人物的要素がない)からしても、面白いカードで、様々な解釈が可能です。

タロットの大アルカナは22枚ありますが、このうち、ある区分けでは、10をひとシリーズ、1セットと見て、都合2セットの20枚とし、残りの二枚は「愚者」と「世界」にするものがあります。

これには、前回の記事にも出た「10」の数に関係するところが大ですが、ともかく、20枚、10を1セットとする2セットの、最初(数の少ないほうの)のシリーズの終わりが、「10」の数を持つ「運命の輪」のカードとなるわけです。

もし、「運命の輪」の示すことの大テーマが「運命」であるならば、いわゆる私たちの考える「運命」というものは、ここで一区切りを迎えることになります。

ということは、マルセイユタロットから見れば、運命のというものは、次のセットに進むとなくなる、あるいは、概念や考え方として、まったく別モノになるということが予想されます。

次の(10)セットとは、「力」から「審判」です。これらのカードと、今までの「運命の輪」までのカードたちとを比べると、明らかに違いがあるのがわかるでしょう。

その違いを何(どんな意味や象徴)と取るのか?によって、10セットのシリーズの意味合いも変わるでしょう。

ただ、「運命の輪」の「運命」ということを中心(テーマ)としますと、「運命」と呼ばれるものの質が、ここを境にして変わることは言えるかと思います。

「運命の輪」の絵柄の特徴は、車輪に三匹の動物たちが一緒に描かれていることです。

車輪の円周上にいるのが二匹で、車輪の上にいるのが一匹です。この三匹の位置が、いろいろと解釈が可能であり、面白いと言えるのです。

「運命」は、厳密に言いますと、「運」と「命」に分けられる言葉で、本当はそれぞれについて考察が必要ですが、ここでは、シンプルに「」だけで見てみます。

すると、「運命の輪」の動物たち、それぞれが運の特徴を表していると考えることもできます。

輪の中にいるとも言える二匹の動物は、輪がクルクルと回れば、二匹の位置は入れ替わって見ることもできます。上に向かっている動物も、下に向かっている動物も、輪にくっついているわけですから、輪が回転すれば、立場(方向)は逆になります。

ということは、本質的に、この二匹は同じなのです。ただ、輪の中にいては、それがわかりません。二匹の動物たちは、それぞれが「オレはオレ」「ワタシはワタシ」と思い、オレは上に向かうもので、ワタシは下に行くものだと認識していることでしょう。

ですが、輪の上に乗っている動物から見れば、上に向かう動物も、下に行く動物も、輪が回転すれば入れ替わるだけで、方向性に上も下もないことに気づきます。

ここに「運」をあてはめますと、輪の中の動物二匹は、運が良い・悪い(上とか下とかの位置)と思う私たちの心とも言えますし、環境(モノ)と精神のように、ふたつのことによって規定される「運」とも表現できます。

一方、輪の上の動物は、それらの「運」とは違う認識にあって、もしこの動物の位置に相当する運があるとしても、それは、もっと大きな宇宙的なものであるとも言えます。むしろ単なる機械的・リズム的なものかもしれません。

私たちのほとんどは、現実において、運の良し悪しを思うことが多いですが、それは、この「運命の輪」における輪の中の二匹の動物の位置のように、入れ替わりつつも、実は本質的には同じもの(別の言い方をすれば、いいも悪いもないもの)だと例えることができます。

いい・悪いを決めているのは、輪の中にいること(それに気づかないこと)と、その位置が直線的(円ではない認識)であること、すなわち、統合的認識に至っていないことにあると言えます。

極端な言い方をすれば、自分の運の良し悪しを決めているのは、ほかならぬ自分であるということです。

輪の上の動物の位置からすれば、おそらく見えていなかった因果関係というものも現れ、すべては原因があり、その結果であることがわかり、運という偶然ではなかったこと、良いを選び、悪しきを避けていても、本質的には、回転の演出で振り回されていたに過ぎないことに思い至るのだと想像します。

そのような境地は、ある意味、小悟り(中悟りかもですが)とも言え、だからこそ、10を2セットとして見た場合の、ひとつのシリーズの終わりと見ることができるわけです。

そして、「運命の輪」の段階で、人間的・凡夫的な、運命に振り回される状況を脱することが示唆されているのだと推測できます。

そんなことは、修行僧でもあるまいし、できるわけがないと思うでしょう。

確かに全体的には無理でも、実際の生活のひとつのシーン、あるいは問題において、「運命の輪」的見方をしていくことで、回転の演出から少しずつ逃れることができるのではないかと思います。

二匹の動物の位置ではなく、俯瞰した輪の上にいる動物の視点です。中立性と言い換えてもいいでしょう。

普段においても、運が悪いとか良いとかの断定的言い方を避け、そういう物言いをしている時、自分は何をもって良いとし、悪いと決めているのかを探ると、違う意識(認識)が出てくるかと思います。

ただ無理矢理、中立性を思ったり、悟るふりをしたりしても逆効果だと思います。

人間として、実際の生活において運の良し悪しを思うことは普通ですし、運気的な流れというのも、ある次元では存在していると考えられます。

運の良し悪しを感じることで、神仏やその守護、反対の悪魔的な力やその影響、さらには因縁めいたものとかの、別次元の考察に至ることもあり得ます。(すなわち多重なる世界の認識と、自己の再構築が進む、一時的には混乱もあり得ますが)

ですから運を排除して考えるのではなく、運を受け入れつつ、極端な二元的観点(良し悪し、一喜一憂するような態度)から離れて行くというような姿勢がよいように思います。

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