愚者 何者でもないこと
私はタロットを扱い、いわば仕事にもしていますので、人から見れば「タロットの専門家」という感じになるかと思います。
しかし、自分自身は、タロットの専門家でもないですし、かといって、タロットの愛好家とも言えません。
前にも何回も書いていますが、たまたま、自身の好みと探求の方向性において、「マルセイユタロット」をモデル・ツールとして使うことがふさわしく、理に適っていると考えているからです。
従って、奇妙なことが私には言えます。
それは、タロットにおいて“何者でもない私”になってしまうということです。
ここで言う、何者でもない、というのは、タロットの歴史・研究マニアでもなければ、魔術的タロット実践者でもない、かといって、タロット占い師でもなければ、また心理的タロット研究者でもない、ましてやタロットコレクターでもないわけです。
ただ、自分の弁明(笑)のために言っておきますが、一応、マルセイユタロットにおいては、深くやっているつもりで、少しずつつまみ食いをして、広く浅くタロットと関係しているというタイプではありません。(笑)
で、何を言いたいのかと言えば、何者でもない感と、何者かでありたい感について、ちょっとふれたいがためです。
「何者でない感」は、逆に、「何者かでありたい」という感情が裏返し・セットになっていることがほとんどです。
人は、自分が特定できる何者かであり、人からも「こういう人だ」と認められることに安心感を持ちます。
一方で、特に、他人から言われる「自分像」に抵抗を示す気持ちも、多くの人にあります。
心理的によく言われるように、「自分だけ知る自分」というものがあり、さらには「自分さえ知らない自分」というのもあります。だから、当然のように、他人から見られている自分像というのは、ほんの一面に過ぎないことを、自らも(無意識な面も含めて)わかっています。
この、特定されたい、個性を指摘されたいという一面と、反対に、特定されたくない、人の言う自分ではない(人の言う自分にはなりたくない)という一面との、アンビバレンツな感情が人にはあるわけです。
結局、安定と自由の葛藤であり、維持と破壊のふたつで揺れる存在(が人間)とも言えます。
「何者かである」とされた時、人は固定され、言わば自由を失います。束縛と同じようになるわけです。しかしながら、その恩恵も大きく、何かに属し、レッテルを貼り(貼られ)、個性が与えられると、その箱(範囲)で安心して暮らすことができます。
自分がそう振る舞うことで、ほかの余計なこともしなくて済み、精神的な(組織に属せば、物質的にも)安定が得られるでしょう。
ただ、いつか「本当に自分はこうなのだろうか?別の自分がいるのではないか?」という、確保した安定性と付与された個性を放棄したくなる「破壊」的な疑念と、新たな自分を見出したい衝動も出てきます。
マルセイユタロットの大アルカナで言いますと、皆、どれかひとつ(か、幾つか)のカードが表す「自分」というものに、一度は落ち着きます。ただ、本当は「愚者」かもしれず、「愚者」は数を持ちません。ということは、どの数でもなく、自由であり、何者にも特定されていないわけです。
「愚者」の絵柄を見れば明らかなように、旅姿をしています。つまり、「愚者」に戻れば、本当の旅が始まると言えるのです。
あるいは、特定されたカードから「愚者」に戻って、また別のカードになるために旅する、その繰り返しかもしれません。
もちろん、人には生まれ持った性質とか、宿命のようなものもあるでしょう。それらは言わば、初めからなじみのあるカードとも言えますし、手札として最初から配られたカードとも言えます。
ですが、基本、皆、「愚者」だと思えば、ほかのカードは、自分の仮初の姿に過ぎないと言えます。
人との違いが商売とか経済的なもの、あるいは生きる楽さ(落差)にもつながってしまう今の世の中で、「自分は何者でもない」と悩む人も多いかもしれません。
それでも、マルセイユタロットで言えば、皆、「愚者」なのですから、それが当たり前と言いますか、「愚者」であることが旅を自由にさせるとも言えます。
これは責任放棄を勧めているわけでは決してありませんが、「愚者」という何者でもない者として自分を取り戻せば、背負い過ぎているもの、強制的に演じさせられているもの、それらからは解放されて行きます。
マルセイユタロットを手にすれば、あなたは「愚者」として本当の旅を始めることができます。
占いも救いになるかもしれませんが、かえって自分を何者(成功者など)かに固定することに迷わされ、空しくなることもあります。そういう人たちは、マルセイユタロットの学びによって、実は守られるかもしれません。
矛盾した言い方ですが、特定からはずれることで、自分自身が守られることもあるのです。これは語弊がありますが、言い換えれば、(いい意味での)目標放棄に近いものなのです。
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