選択と(霊的)自立

以前にも何度か書いておりますが、タロットへの質問重要なことです。

しかし、矛盾するようですが、究極的には、質問はあまり意味をなしません。

ただ、それはあくまで他人向けのタロットリーディングにおいてのことです。タロットを自己活用の意味で使う場合、質問はどのレベルにおいても大事になってくると考えられます。

一般的に、タロットに向かって質問(問いを)をする場合、「なになにはどうなりますか?」という形式を取ることが多いのではないでしょうか?

特に、「占い」としてタロットを使用する時は、そうなりがちです。それが悪いわけではありませんし、そのように聞きたい気持ちは、人として当然とも言えます。

なぜタロットに質問するのか?を考えてみれば、今起こっていることや、先行きが不安でわからないことがあるためと主に言えます。

すると、「このことはどうなるんだろう?」と未来目線で、人は質問をしたくなるわけです。これにはタロットからの情報を得て、不安をなしくたい、はっきりとした未来像を見たいという気持ちが含まれるでしょう。要は安心したいわけです。

しかし、これだと、タロットからの情報・示唆を得るだけで、受動的な態度となってしまいます。

あくまで不安を和らげ、少しでもほっとしたい、明るくなりたいということでは、先行きの情報を“占って”もよいかもしれませんが、情報をただ受け入れるだけでは、能動性の発動が起こりにくくなります。

ここて言う「能動性の発動」とは、自立に関した自らの(意思による)選択と行動を意味します。

先日のブログ再開(仮)の記事にも書いたように、「自我の確立」ということは、これからとても大切になってくることだと、私は考えております。それはマルセイユタロットが示す、自己の成長面をテーマにした見方からも言えることです。

それは、トータルな意味での自立ということ(テーマ)になるでしょう。

私たちの普通の人間としての成長から見ましても、赤ちゃんから子供、大人、老人へと移り変わって、途中で親から独立(自立)してくことになりますし、後半はむしろ、子供を育てたり、後進を育成するなど、保護、指導側にも回ります。(まあ、老後では逆に介護が必要になったり、人に助けてもらったりすることもあるかもしれませんが)

これと同様に、霊的な意味でも、私たちは自立を果たしていく必要があるものと考えられます。

「霊的な自立」というのは難しい言葉でもありますが、ひとつ言えるのは、受け取る側だけではなく、自らが創造し、選択し、その結果にも責任を持つというような態度があると思われます。

スピリチュアルな世界では、神や高次存在とつながるとか、神のパワーがあるところに行き、エネルギーをいただくとか、そういうことを言っている人も多いです。

ですが、これらの態度は、全部、受動的な発想から出ています。(一応、何らかの行動はあるので、すべてがそうであるというわけではないですが、発想・考え方のことを言っています)

これは、「外に神がいて、救ってもらう」(だからその神を信じ、神に適うルールを作り、きちんと守られているかを監視しなければならない)」という、宗教が支配のために使うものと似てくるようにもなってきます。(宗教が悪いと言っているのではなく、支配や依存構造になることが問題と言っています)

とは言え、霊的・精神的に未熟であったり、弱って助けを必要としたりしている場が人には(段階・状況として)ありますから、別に受動的態度が悪いわけではありませんし、子供が親に保護してもらわないと生きられないように、私たちには、外からの(霊的・精神的な)救済・援助・補助が必要なケースはあります。

ですが、いつまでもそのような態度では、霊的・精神的自立ができなくなってしまいます。

外の神もまた過保護になり、場合によっては、悪魔的依存を生み出し、あまりよくないサイキック的存在を引き寄せてしまうこともあるでしょう。心理的には見えない存在を利用した共依存とも言えます。(見えない存在は自分で生み出していることもありますから、結局自作自演にもなりますが)

よって、最初の話に戻りますが、タロットに質問する場合でも、「どうなるか?」というようなものから(判断材料の一つとしてみるならば、そういう質問をしてもよいですが)なるべく離れ、「どうすればよいか?」とか、「どのような選択や解決方法が考えられるか?」「この状況で私ができることは何か?」というような形にするとよいと思われます。

そして、普段からも、「自分が選択する」「選ぶ・選べる」という意識を強く持ち、他人や大きな外部存在、洗脳的情報などと同化してしまわないよう注意することです。

マルセイユタロット的に言えば「」のカードと関係し、力、フォルス(フォース)を他人に簡単に明け渡さないようにするということです。

どうにもならないとか、どうしようもないとか、無理だとか、(投げやりな意味で)自然に任すとかの受動的態度の日常的継続、あるいは、特段の意思なき態度を取り続けることは、たちまちのうちに、外の巨大なパワーに飲まれ、自分が自分でなくなって、ただのエネルギー発電装置として利用されることになります。

自分の選択権を意識しないと、大きな影響力を持つ人に、自分の持つパワーを提供してしまうことになるのです。

だから悪い意味でカリスマ性を持つ人は、どんどんエネルギー的に肥え太り(見ようによっては、その人はとても魅力的存在に映ります)、またそういう人は「もっと食べたい」という欲求も出るので、ますます自分の下に引き寄せようと、誘蛾灯のような餌をたくさん撒くことになります。

自らが自立的意思を持たないと、このような人の格好の餌食になります。これがマルセイユタロットの「悪魔」の、悪い意味での構造・仕組みです。

確かに、私たちには与えられているものも多く、それなしでは生活も世界も成り立ちません。ですが、それを生み出した者も、受け取る(利用する)者も、自己の創造性・能動性・選択性が働いているのです。

概念、あるいは観念として、外の神とか仏とか、天使とか、高次存在などを置くことは、時と場合によってはよいと思います。

さらに、それらとコンタクトしたり、守ってもらったり、示唆を与えてもらったりするのも、ある段階や、ひとつの(エンターティメント的)表現としてありでしょう。

しかし、真の自立のためには、少しずつ、そうした保護や依存から離れ、独立を目指していく必要があります。それは自分自身の神性を認識するというグノーシス的なことと一致します。

普段の行い、そしてタロットを使うことにあっても、受動的になり過ぎないように注意し、自己が選択できることを意識し、あくまで、そのための情報や判断材料として得るということにして、(どんな)結果においても(なっても)責任を持つ態度が大事になるでしょう。

ゲームやアニメーションではよく知られる言葉に「世界線」というのがありますが、これは自分の選択によって変わる多元世界の流れを意味します。つまりは、枝分かれするたくさんの世界(パラレルワールド)のことです。

無限の可能性とは言いませんが、少なくとも、かなりの数の選択肢による別の(結果の)世界が、瞬間瞬間にあると仮定します。

選択する瞬間の「今」は、本来ならば、何の枷もない自由な状態(無限のパラレルワールドがある)と言えますが、おそらく現実時空に生きる私たちには、過去・現在・未来の意識による縛り(因果関係とか、自己評価による限界・信じているルール・観念)があります。

そのため、世界線は無限ではなく、現意識による限界や壁のようなものはあるでしょう。

しかし、それでも、何の選択意識もなく、ただ流されるままに受動的に生きていると、他者や大きな集団的エネルギーにより、世界線は自動的に選択され、結果、あなたは自分の望む世界とは違う、まさに相手の思うつぼの世界に移行されられることになるわけです。

ですから、自分自身を取り戻すためにも、また霊的成長・自立のためにも、能動的・自己選択的態度を意識することなのです。

ただ、何事も、習慣化されてしまったものは、楽に、簡単には修正できません。マルセイユタロット「神の家」のレンガ積みのように、ひとつひとつ経験を積み重ねていくことが求められます。

「神の家」が出ましたが、ちなみに選択を意味するカードには、「恋人」もあります。マルセイユタロットでは、同じローマ数字で「」の数を持っていることも必然的です。

ということで、タロットへの質問も、能動性・選択性が出るよう工夫してみましょうという話です。その意図は、トータルな自立に向けての作業(訓練)であるということなのです。

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