「特別さ」が与えるもの

一年周期として見ると、やはり、春分・秋分・夏至・冬至は、特別なポイントであると考えられます。

今もって、その四つの時期について、風習的にも、宗教的にも、何らかの行事が行われているのを見ても明らかです。

そして、今月、六月夏至を迎えますので、月単位で観ますと、特別な月であると言えます。

ですから、色々な方が、今月に何かを行うことや、心を決めることについて言及していると思います。

ただ、昨今は動画やSNSを中心に、自己アピール合戦みたいな様相を呈していて、毎月、いや毎日のように、「今(今日、今月)がチャンス」とか、「この時期は特別」「変わりたいなら、今月中になになにをすること」など、言われています。

これでは、チャンスや特別な時期は、設定次第でいつでもなるのだといわんばかりです。(笑)

マルセイユタロットで言えば、毎日、「運命の輪」の特別な回転があるようようなものです。しかしながら、この「設定次第で、いつでも特別日(時期)にできる」というのは、ある意味、真実かもしれません。

私は長年タロットをやってきまして、いわゆる「特別さ」を経験する(あるいは演出する)には、天・地・人の三つが主要素としてあると考えるようになっています。

」というのは、天体とか惑星による条件(つまり時間とも関係します)で、「」というのは地球上の環境、地の利みたいなもの、「」というのは人間が行うことによって生ずる効果などを意味します。

このほかにも、むしろ場合によってはメインになるかもしれない「霊的(高次存在・神的存在)なもの」や「サイキック的な要素」もありますが、それは地や人(人が行う儀式によって、影響させることができる場合があるので)の範疇として、何とか入れることができるかもしれません。

「魔術」とか「呪術」のようなものでは、このサイキック的とも言えるものの条件と影響で、特別感(非日常)を出すことはあると思います。

それでも、たいていは、天・地・人を考慮し、その配置・調整・儀式的行為・象徴性の力の発露などによって、「特別さ」を、どの分野であっても、出していると思われます。

この「特別さ」といのうは、宗教的にはいわゆる「奇蹟」にもなり、宗教からはずれれば「奇跡」として、とらえられる場合もあるでしょう。要するに、普段より特別になることで、非日常的なことか起こる、あるいは起こすことができるわけです。

普段より特別になるというのは、並行世界とか多次元宇宙論の話で言えば、まさに違う世界や宇宙に入る(移行する、あるいはそのフィールドを出現させる)ということであり、だからこそ、日常の時空常識(ルール)とは異なることが可能になると考えられるわけです。

あえて心理的に言えば、実は身もふたもない話かもしれませんが(笑)、自分で自分を洗脳させるみたいなことで、強烈な信念とリアリティある演出があって、自己洗脳、トランス状態になり、あたかも、特別なことが起きる、特別なことを起こす力があると錯覚してしまうということです。

しかしながら、人間、トランス状態や変性意識状態になれば、マルセイユタロットの「力」のカードで象徴される「フォース」の解放が叶い、それこそ超越的な能力を一時的に出すことも可能になることがあります。神がかりの原理です。

また、自分への洗脳が強力であれば、おかしな話(スピリチュアル的な話)ですが、自分が中心軸となって、例えるなら、自分自身が宇宙(の創造の中心)となって、周囲が生成されてくるようになり、つまりは、まさに自分が中心となって地球(世界)が回るというようなことが生じます。(自分に向かって、周囲が引き寄せられてくるようなもの)

マルセイユタロットで言えば、「運命の輪」の上にいる「スフィンクス」、さらに力が強まれば「悪魔」(「悪魔」のカードに象徴される存在)になってくるわけです。

こうなると、強い魅力と支配力を持つことになりますので、ビジネスの成功とか、注目を浴びて人気者になるとか、カリスマ的指導者、先生、講師、経営者、政治家、タレントなどとして目立つことも可能になるでしょう。

悪い言い方をすれば、自分に従う奴隷がたくさんできることになりますし、よい言い方をすれば、自分のファンやサポーター、共感者(厳密には洗脳者ですが)が増えます。

その恩恵(エネルギー変換)として、自由主義経済のもとでは、お金としての糧も得られ、それにより、自由な時間と選択も持てて、ますます魅力的に他人の目からは映り、いわゆる現世利益的にも多大に恵まれることにもなると想像できます。

話を戻しますが、「特別さ」を獲得する秘儀を得れば、いろいろな恵みを受けることもできるので、古来より、特別さを出す、特別さ(非日常の世界)に自分を移行させる技術は追及(研究)され、隠されてきたこともあったと考えられます。

また、その力(得られる力)が強大であればあるほど、コントロールするのも難しいでしょうから、「特別さ」の経験は、ある種の危険が伴うと見てもよいはずです。

だからこそ、その技術と知識は、隠されてきたところもあるでしょう。

たとえそれが神とは無関係であった(神のような存在がいるのかどうかは別)としても、「神なるもの」を想定し、その介在あって特別さが出現する、あるいは、その力が付与されるとしてきた昔からの宗教的行為には、安全性を担保とした儀式を行う人間への保護の意味があったとも考えられます。

(もちろん、宗教そのものの存続とか、威厳を保つための理由もありますが)神聖さを演出しないと、力を得るものの心得次第では、他人や社会に迷惑がかかってしまいます(利己的な欲望が暴走し、その欲求達成に力が発現されるため)ので、神を信じ、神に帰依して謙虚になれる者が選ばれて、特別さを経験できたのだ推測されます。

実はタロットには特別さを出す力が備わっていると言われますし、そのために作られたという説もあるくらいです。

遊びや気軽な占い目的として、普通に使う分にはそれほど影響はないにしても、真剣にやれば、タロットでも、いにしえの特別さを出現させることができると考えられます。

しかし、先述したように、誰彼なくやっていいものでもなく、特別さの力に自分のほうが負けてしまう(魅了され、支配される)こともあり得ます。

知らず知らず、悪い意味での魔術的方向性(いわゆる黒魔術的目的)や、悪意あるサイキック世界の影響を受ける状態(悪い存在の憑依など)へと、足を踏み入れてしまう危険もあります。

すでに述べました、マルセイユタロットで例えられる「運命の輪」のスフィンクスと「悪魔」に自分がなってしまっている者もいると考えられます。当人たちは気づいていないでしょうが。

※(言っておきますが、マルセイユタロットで表現されている「スフィンクス」や「悪魔」自体は、悪い意味ではありません。すべての意味は中立です。ただし、特別な力をアンバランスに持ってしまった場合の「スフィンクス」と「悪魔」には、問題があるわけです)

しかしながら、自分がコントロールできる範囲での「特別さ」は、自己や他者変容には安全に使えるもので、常識や過去のしがらみなどに囚われ、縛られた自分を解放することにもなります。

そういう意味でなら、時間と場所と人、そして、人が使う道具(この場合はタロット)によっては、とても効果的な「特別さ」が体験できるのではないかと思います。

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