目的・目標を持たない人生

何度か書いたことがあるテーマですが、人には、「目的(目標)をもって生きたほうがよいのか」、逆に、行き当たりばったりほどとは言いませんが、あまり「目的を持たないで生きたほうがよいのか」という問題があります。

私の場合、このテーマへの回答は、ずるいようですが、どちらもありであり、またどちらでもないというものです。

結局、個人それぞれであり、そして、状況次第でもあると言えましょう。

ただ、最近は、前者の「目的をもって生きる」のほうに価値を置く人が多くなったようにも感じます。

いや、おそらく、そのほうが、「生きている」実感が出て、張り合いのある人生になるのではないかと、私も思います。

しかし、問題なのは、それが、人から言われたからとか、そうしたほうがいいと何かで読んだ(聞いた)からとか、自分の気持ち(あるいは状態)を無視して、画一的(機械的)に従っているような場合です。

比較的よくあるのが、成功理論(法則)や自己実現を謳う人たちからのものに、「目的を持った人生」を強制されがちなパータンです。

確かに、目的意識が強ければ、それを達成しようという行動も出てきて、熱意をもって、その間の人生も充実しているように感じるかもしれません。

けれども、意外に、人生は結果論(結果で評価される)みたいなところもあり、結果よければすべてよしに見られる傾向があります。

ですから、ある人が成功しているからと言って、(結果はそうでも)過程では、必ずしも「成功する目的」を持っていたとは限らないわけです。

例えば、好きなことを何となくずっと続けていて、その好きなことが、案外、他人から求められるようになり、気がつくと売れて成功していたという話もあるでしょう。

人間誰しも、多少は「こうなりたい」みたいな目標はあるとしても、その達成に、強烈な思いが絶対に必要であったかどうかはわからないものです。

結局、人生は運ではないかという人もいるくらいで、であるならば、運任せの人生のほうが楽ではないかという話にもなってきます。(だから、「運をよくする」という生き方を選ぶ人もいますが)

運任せ、まさに行き当たりばったりと言えますが、こちらは、先述の成功理論とか自己実現の方法にはまり過ぎて、結局、望み通りにはならず、色々疲れてしまったような人には、かえってよい場合があるかと思います。

ほかにも、目標はあったのに、年齢とか様々な条件で、どうやら叶いそうにもないと、ほとんどあきらめかけているような人です。

まあ、そういう時は、投げやりになって、もう人生、どうでもいい、というふうにはなりがちですが…

ここで提案したいのは、タロット的に例えれば、積極的な「愚者」人生というものです。

マルセイユタロットの「愚者」というカードは、数がなく、何ものにも規定されない(囚われない)自由の象徴です。また、その人物は旅人の姿をしています。

ここから、人生の旅をしている「愚者」と見て、しかし、旅はしても、先ほど言ったように「自由人」であるので、特に目標とか目的を持たずに生きるような姿勢だと言えます。

ただそれは受動的で投げやりなものではなく、自由をポリシーとするような生き方で、その選択をする積極性があるということです。

一言で言えば、気楽さを自ら選ぶ人生であり、あえて目的を持たないようにすることで自由性を獲得する人生という感じです。

さらに「名前のない13」というカードと「愚者」は関係しており、この「13」は名前がないのですから、名前に囚われることはないわけです。囚われのないという意味では、「愚者」と共通していると言えましょう。

名前というものを、ひとつの出来事とか事柄、あるいはまさに人の名前と見れば(私たちは名前・名称によって物事を認識、決めています)、目的を持たない人生は、ある意味、「13」でも象徴されるということです。

「13」の場合、目的を持たないというより、目的を捨てるみたいな生き方かもしれません。または、目的をその都度捨て(見直し)新たなものに作り直すと表現してもよいでしょう。

目的を持つ人生は、人生にパワーを与えることに貢献するものだとは思いますが、私たちは、あまりに他から・外からの目的を植え付けられて、本当の自分の目的を見失わされているように見えます。

ですから、逆に、目的を持たなかったり、捨てたりする人生を選び、自分を無(ありのまま)になるべくして、その時その時(つまり「今」)を精一杯生きる(愚者的には無邪気に、気楽に生きる)という姿勢もあってよいように思います。

つまり、何かをなさねばならないとか、人から評価されなければ(認めてもらえなければ)自分が充実した気分にならないとなっているうちは、偽の目的・目標があなたを支配しているわけす。

それがために、ますます仮面としての自分が強制され、生きづらくなってくるという仕組みです。

「目的(を持つこと)」は自らを高め、充実させるためにあるものなのに、反対に、目的・目標に自分が操られ、苦しめられているのです。

だから、「愚者」や「13」的な生き方を採り入れて、あえて、行き当たりばったり的な、その日その日を楽しむ予定とか先の計画はほとんどしない生き方、目的はあっても、それをどんどん変えていくことを許可する人生もいいかもしれません。

もちろん、必要な準備とか計画はあってもよいでしょうが、ただ人生を生き切るとした「目標」以外、特に抱かず、流れのままに生きるという意識で、心を楽にしていく時があれば、逆に、確固とした目的も生まれることも考えられます。

私たちは人として共通なものを当然持ちますが、同時に、個人として、別々の個性を持っています。皆同じで皆違っているわけです。(笑)

ですから、よい生き方や成功の概念も人それぞれであり(ですから人生は観念とも言えます)、自分がよいと思えばよい人生になりますし、反対の、悪いと思えば悪い人生になるわけです。

時系列的に、過去と未来に、人は、よく囚われます。いくらよいと思おうとしても、過去と未来への思いが、後悔や不安を生み出します。

従って、特に未来においては、目的とか目標を持つことが、未来への意識を強くしてしまいますので、そういうものをあえて考えないことで、不安や混乱要素を排除していくことにもなるわけです。

ただ、目標ある未来の実現過程が楽しめる場合は、この限りではなく、未来の到達点(目標)が、生きるエネルギーそのものとなるでしょう。

何度も言いますが、目標・目的を持つことがいけないと言っているのではありません。

普通は、そのほうがいいと考えられるのですが、ここで述べているのは、それを持つことで囚われになっては元も子もないので、時には「愚者」みたいになってもよいよという提案なのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Top