タロット自体の縛り

かつてタロットを学んでいる仲間と、定期的に集まって、いろいろと語り合う機会がありました。

そんな頃を、今は懐かしく感じる(笑)日々ですが、ふと、その時(内容も含めて)を思い出すことがあります。

そのひとつに、「我々はタロット学んでいるけれど、タロットが、逆に縛りにならないだろうか?

とメンバーがつぶやいた一言で、皆が、それについて一考するという事態があります。

タロット(学習していたものは当然のことながら、マルセイユタロットです)は、本来、自由になるためのものだと当時は信じていました。(この場合の「自由」は「解放」に置き換えてもよいです)

いや、今も基本的には、私はそう思っていますが、それも場合によると言いますか、使い方次第だと言えます。

話を戻しますと、「自由になるはず(解放のため)のタロットの学びが、逆に、我々の縛りになるのでは?」という問いかけは、タロット学習を楽しくしていたメンバーに、一石を投じるものとなりました。

私も同様に、これについて、ちょっと考えないといけないな、と警告的に受け取りました。

タロットを学ぶことで、タロット的な見方を獲得し、物事の整理と理解が早まる(深くなる)のは、まともに学習した者たちからすれば、実体験として当然のことと受け止められます。

しかしながら、タロットもひとつひとつが象徴絵図であるとともに、枠をもった図像(制限ある絵)であることには変わりないのです。

タロットを愛する(偏愛する)があまり、すべてを捻じ曲げてでも、タロットに落とし込もうとする、無理矢理の理解(こじつけ)は、方向としてはであり、このような使い方をすれば、確かに、タロットが縛りの道具になってしまうでしょう。

今回のテーマの「縛り」とは別のものですが、タロット占いを信じ過ぎ、タロットの言いなりになってしまうような依存的な態度も、タロットによる縛りと言えます。

いずれにしても、ある宗教教義が絶対とされて、それに合わないものは非難、排除されるというのに似ています。

やはり、タロットであっても、囚われの枠や自らを縛るロープになってしまうこと、色メガネの色とメガネになってしまうことを危惧し、使う者は、しっかりとそのことを踏まえながら、自省をもって扱うことが大事だと思います。

タロットが縛りとならないためには、柔軟な姿勢を持つことと、タロット的には、常に個(単体)と全体を考慮することです。

とは一枚とか少ない枚数のミクロ的なタロットへの見方です。これに対して、78枚を一組にした、あるいは大アルカナ全体とか、小アルカナ全体とかのマクロ的な観点(全的な見方)も必要であるということです。

例えば、大アルカナは、全体でもって、真の解放や自由を象徴すると見ますと、一枚一枚は、まさにひとつひとつの解除方法を示していると言えましょう。

さらに言えば、個々で解除されるのではなく、例えば数順に解除されていくという具合に、一種のステージとかレベルのようにひとまとまりにされているかもしれないと考えることもできます。

まるでゲームの(ステージ)クリアーみたいなもので、解除の鍵は、単独のカードがわかったからと言って、即、渡されるわけではない可能性もあります。

また、カードたちが、実は逆説的に、私たち自身を縛ってるもの(こと)そのものをテーマにしていると見ることもできます。

普通、タロットカードは、リーディングとか占いで、ポジティブな意味や、反対のネガティブな意味を絵柄を通じて見い出そうとします。

しかし、カードそのものが実は縛りを表すと見れば、少し、通常の読みのネガティブ面を見るのに近いですが、それとは異なるものが浮上してきます。

例えば、「正義」というカードがあれば、正義が縛る(縛っている)ものは何か?と問われていると見るわけです。

まったく自由に見える「愚者」でさえも、「愚か者による縛りは何か?」「自由や純粋性が縛りとなっていることはないか?」と考えてみるのです。

これが大アルカナを一枚一枚を利用した、縛りへの考察法で、結局、この作業は、自ら(あるいは他者)に解放をもたらすために行うのであり、この意味では、タロットは縛りになると同時に解放にもなると、両方言えるわけです。

究極的には、タロットなどいらないと言え、個人的にも、タロット学習・活用の最終段階は、タロットから離れること、タロット自体、忘れるほどになることだと考えています。

結構、どの進化・発展パターンにも言えることだ思いますが、勘違いした自由度(無自覚な、狭き自由状態)から、ルールや規則、パターンを学ぶ世界に一度自分を閉じ込め(学習・修行、再構築の準備)、そのうえで、その世界を破壊して、次なる自由度(かつて自分が思っていた自由とはまったく異なる自由や世界)に向かうのだと思います。

マルセイユタロットは、おそらく、ほとんどの人が無自覚だったり、勘違いだったりしている世界観とか自由というもの(無自覚の囚われ、牢獄状態)から、脱出や自覚のために、あえて別の囚われに入り、そこで別の観点から世界を改めて見ることで、ふたつ囚われ(最初の囚われと、あえて入った二度目の囚われ)から解放させ、真の(あるいは高次の)自由に飛躍(タロットでは鷲の象徴が思い浮かびます)するための導きのツールだと考えられます。

そして、「タロットを学べば自由になる、よくなる」という単純なものではないことも自覚しつつ、学びを進めて行きたいものだと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Top