「手品師」のサイコロから
私は乗り鉄ほどではまったくないですが、比較的、電車の旅が好きです。
前に、父親の話で、父が車(の運転)が好きなのに、認知症て乗れなくなっているというお話をしましたが、私は父と反対で、車(の運転含めて)はあまり好きではありません。
とはいえ、若い時は、かなり車でいろいろなところには出かけましたので、車の便利さと楽しさも知ってはいますが、どちらかと言えば、鉄道のほうがいいですね。
よく考えると、バスや飛行機(残念ながら、航空中耳炎にかかるようになってから、なかなか飛行機には乗れなくなりましたが)でもよいので、結局、自分が運転操縦するのではなく、乗せてもらうのがよいのだとわかります。ということは、乗り物に関しては受動的だと言えます。
なぜ受動的なのかと言えば、性格にもよるでしょうが、旅の過程や風景などを楽しみたいというのがあるからだと思います。自分で運転していては、さすがに十分景色を楽しむことはできませんので。
逆に運転が好きな人は、景色を見ながら物思いにふけるというようなことよりも、自分で操縦している感覚、自分の意思が行使できる自由性と支配感、目的地に自分で向かっているプロセスが心地よいのだと思われます。この点では自分が主体であり、能動的性質を持ちますね。
さて、前置きが長くなりましたが、そんな電車旅を好む者として、最近、JR西日本が、「サイコロきっぷ」なる企画を打ち出したことを知り、興味深く見ました。
これは、サイコロの出目によって、大阪を出発として目的地までのチケットが変わるというもので、一人五千円で、最遠は博多があります(確率は低いようですが)し、どの目的地でも往復分以下のお得価格になるようです。
それでサイコロと言えば、マルセイユタロットでは大アルカナナンバー1の「手品師」というカードが思い浮かぶのです。
一方、市場で普及率の高いウェイト版の大アルカナ1は「魔術師」であり、その絵柄には手品道具ではなく、魔術道具化したものが描かれています。そこにサイコロらしきものもありません。
マルセイユタロットの「手品師」はその名の通り、手品をしていると見られるため、手品道具が色々とあり、そのうちのひとつにサイコロも存在します。(ただ、サイコロかどうかが、古いマルセイユタロットではわかりづらくなっていて、サイコロとは言い切れないこともあります)
現代にリニューアルされたマルセイユタロットでは、サイコロとしてはっきり描かれているパターンがあり、特にホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロットでは、出目とサイコロの数までこだわっています。
サイコロの目は、ご存じのように6つあり、通常、その対となる側を合計すると「7」になるよう設計されていて、それが三通り(「1,6」「2,5」「3,4」)あります。
出目の組み合わせも、二つのサイコロの時は21あり、もし三つあれば56通りになるということで、明らかにサイコロを、タロットの数や構成に関係させていることがわかります。(詳細は講座で語っていますし、口伝的内容なので、深くはここでは言及できません)
また、サイコロそのものは立方体であり、三次元(現実世界)とそれ以上の次元(精神や霊の次元・世界)についての考察が意図されていると予想されます。
こうしたところが、マルセイユタロットの象徴性の解読として、とても面白いところです。
ですが、今日は、そうしたものとは別の見方としてのサイコロについて、少しふれたく思います。
さきほどの、JR西日本の企画もそうですし、その元ネタみたいだと言われている、北海道から全国にも放送されたバラエティ番組で、大泉洋氏を有名にさせた「水曜どうでしょう」にも、サイコロの出目による運命任せの旅企画がありました。
そう、サイコロというものは、一種の運ゲー(運任せのゲーム)の象徴としてもあるわけです。
ということは、マルセイユタロットでは「運命の輪」とも関係するかもしれません。(事実、関係性を示す部分も見つかります)
言ってみれば、私たちの人生は、サイコロの旅をしているようなものとも言えます。
神か運命のいたずらか、何か私たちにはわからない要素で、賽が投げられ、あるイベントが発生したり、事件に遭遇したりします。
最近は、ガチャというたとえで、親さえも、まるでデタラメに割り振られる(どの親に生まれるかは、まさに運命ゲーム)うちのひとつのようにとらえられ、運がよければ恵まれた家庭環境に生まれ、よい人生の基礎が築かれるというわけです。(その反対に、運が悪ければひどい親と家庭環境に生まれ、なかなかまともに人生が歩めない)
そうした気まぐれな人生の演出の装置・象徴性として、賭博ゲームで使うサイコロがあてがわれているのも、なかなか面白いところですし、一種の皮肉のような、人生の悲哀さえ感じます。
果たして、私たちはサイコロ神(笑)にいいように操られ、悲喜こもごものサイコロ人生ゲームを味わされている存在なのでしょうか?
そういえば、今もボードゲームとして有名な「人生ゲーム」とか「モノポリー」などで、サイコロの出目次第で、本当に一喜一憂する感情を、私もかつて味わった記憶があります。
よく言われるように、スピリチュアルな話では、私たちは、その浮き沈みする感覚、感情を経験しに来ていると考える人もいます。
何が出るかわからないからこそ、人生のサイコロゲームも楽しめるということでしょうし、また出た目の数によって、体験することが違い、同じような目ばかり出す人もいれば、毎回異なる目を出す傾向の人もいて、それがまた個性となっているようにも感じます。
ここで再び、サイコロとタロットの数秘的な話に戻りますと、先述したように、サイコロの対の出目の合計数は「7」であり、それが三通りありました。
「7」というのは、ある意味、霊的な完成数、セット、ひとまとまりの段階とも言えます。その証拠に、7つの曜日(占星術的な惑星の象徴でもあります)や、音階とかチャクラの数とか、いろいろな面で、7の基本数的な要素がうかがえます。
サイコロひとつを振る時、必ず、1から6のどれかの数が(表となって)出るわけですが、その裏には、合計すると「7」になる数が隠されており、側面のふたつも、やはり合計すると「7」になる数が刻まれています。
つまり、明らかになっている表の出目の数のほかに、裏とか側面にも完成する(のための)数がいつも存在しているわけで、それは目に見えない部分とか、もっと言えば潜在意識(無自覚な意識)とか、精神や霊の領域と言えるかもしれないのです。
とすると、デタラメの運任せに現れたように見える、私たちの毎度毎度の人生ゲームも、完全なものがその裏と別の観点では隠されており、私たちは、実はいつも完全性の中でサイコロゲームを楽しんでいる(気づかず、遊んでいる、あるいは迷っている、彷徨っている)と表現できるのです。
その完全さに気づくために、マルセイユタロットはわざわざ、最初の段階である「手品師」からサイコロを用意してくれており、続くカードたちが、完全性を取り戻す(意識させる)ための示唆として、次々と現れて来るように配置されていると考えられます。
あるいは、複数以上のサイコロの場合、出目の組み合わせの数の象徴性にいきなり飛んで、その人に応じた完全性の回復のための事件・イベントを用意してくれるのかもしれません。
いずれにしても、マルセイユタロット的には、「運命の輪」を超えないと、なかなかサイコロを振っている者の存在とか、仕組みとかを理解するには難しく、つまりは完全性より、不完全性・不足性を強く意識してしまう次元に留まりやすいということになります。
サイコロの象徴性は、まだまだ色々とあるとは思いますが、ランダム的、運的な要素と、計算的、システム的な面との両方を思っていくことで、「手品師」全体に描かれている意図も見えて来るのだと思います。
そして、私たちの人生ゲームの過ごし方も、それこそ、「手品師」が「振ってくれている(振らされている)」のかもしれず、なかなか興味深いところです。
ひとつ言わせてもらえば、私たちはいまだに「イカサマ賭博」をさせられている(そのカモになっている)というヒントは出しておきましょう。(笑)
コメントを残す