節制」の天使、救い・救われること
今日から9月ですね。
さて、本日、マルセイユタロットから浮かんできたのは、「節制」からのメッセージでした。
「節制」は、天使姿の人物が、ふたつの壺を持って、液体を注ぎ入れているような絵柄です。つまりは、「天使」「ふたつの壺」「液体、水」というようなところが重要な象徴となっているわけです。
今回はこのうちの“天使”に関わるもので、「救済」がテーマとなります。
マルセイユタロットの大アルカナは、意識の元型を表しているという説があります。もう少し別の柔らかな言い方にしますと、自分の中にある22枚の性格、姿、キャラクターなど示すと言ってもよいです。
その考えでは、誰しも「節制」という一枚が、心の中に住んでいるのです。
ならば、「節制」の天使の意味から出て来る、救いや救済というものも、人の心にあるわけです。
私たちは「救われたい」という思いと同時に、「救いたい」という思いも持ちます。おそらく、人間は、この両方を欲求として持っていますし、どちらも満たされないと、充実した感覚にはならないのだと思われます。
苦しい時、ピンチや危機に陥っている時は、助けてほしい、救ってほしいと願い、自分に余裕のある時、またそうではなくても、困っている人を前にした場合、やはり、たいていの人は助けたい、救いたいと思うものでしょう。
意外に感じるかもしれませんが、いつも救われたいと思っている人でも、反対の、救いたいという思いも奥底では持っているのです。
言ってみれば、助けられるだけの存在ではダメで、私も誰かを助けられる人になりたいという願いが込められているわけです。つまり、救いたい欲求の反動で、救われる立場を自分に演出するという状態です。
それは、救いたい(という思い)がために、救済の状況・場面に自分を置いて、救い・救われの循環の中からはずれないようにしているからたと考えられます。
この救い・救われという構造は、よく考えますと、二元分離であり、救いたい人が満足するためには、救われなければならない人が存在しないといけないことになります。
決して、片方だけの存在で救済は成立しないわけです。
ここに救いの落とし穴があります。
救済願望、救済のループ(救う者と救われる者の繰り返し)の中で、自分の欲求を満たし、自己の存在(自分が自分であることの証明)を立たせる人がいるのです。
特に、「救われたい」と思っている人の中に、「救いたい」願望(欲求)が隠されているケースがあるのでやっかいなのです。
救い・救われという二元構造の中では、片方だけでは成立しないことは言いました。
ゆえに、どちらの場合であっても、反対側の願望や欲求が隠されていることがあり、救われたいには救いたいが、救いたいには救われたいがあって、セットというわけです。
では、救いたい気持ちも、救われたい願いも、持たない方がよいのか?と言えば、そうではありません。
と言うより、現実次元、肉体をもって一人一人違う自分という意識を持っているこの世界では、むしろ、救い・救われに分離するのか当たり前で、どちらか、あるいは両方の気持ちを持ったことがないという人は、ほとんどいないでしょう。
ということは、この現実世界は、そうなることが設定の世界だということがわかります。
そういう設定ならば、そうしなくてはならないと言いますか、それを経験することがデフォルトみたいなことです。
この構造から逃れようという考え方もありますが、ひとまずは分離体験を味わい、自分が救う側に回るもよし、救われる側に回るもよしとしてみてもよいのではないでしょうか。
それは一種のゲームであり、役割と言えます。
だから人を助け、救う立場をやってもいいですし、そういう人が出ることは、反対の、救われる者、助けられる者がいてこそですから、その立場になるのも必然で、自分は、時と場合によっては、助けられる側になればいいわけです。
しかし、注意しなくてはならないのは、先述した、自己存在のためのアピールのような理由で、救い、救われるものになり過ぎるのは問題だということです。
「救ってあげている(救うことのできる)自分はえらい」とか、逆に、「私は救われてやっているんだ」とか、「助けてもらわないといけない、か弱い存在なんだ」と、助ける者に依存する状態とかを言います。
一般的には助けられ過ぎることには非難がありますが、いわゆる「お節介」という言葉があるように、助け過ぎるのも問題で、あまり言われないか、やっている本人に悪いことの自覚がない(むしろ親切でやっていると思っている)場合が多いです。
お節介は、本来ある相手の力と責任をスポイルすることになり、自立を遅らせてしまいます。典型的な例では、過保護な親とか、一見、優しいようで支配的な上司などにありますね。
ともあれ、「節制」の天使と言えばよい印象になりますが、天使も行き過ぎれば人を堕落させてしまいます。(それは天使というより、悪魔みたいなものですが)
救い・救われ欲求に気をつけながら、この現実世界での救済ゲームに、立場(救う側、救われる側)を入れ替え経験するということは、おそらく霊的な成長のためには必要なことだと考えられます。(救い・救われの感情エネルギーの交流は、すさまじいものがあるからです)
ひとつ言っておくと、神からの救い(神によって救われる)次元ではなく、私たちは、まず人同士の救いの次元を厚く(熱く)経験する必要があるのではないかと、これからの時代については特に思います。
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