上を向いて歩こう
「上を向いて歩こう」という歌がありますが、このタイトルを思う時、私はマルセイユタロットの「愚者」を想起します。
興味深いことに、「上を向いて歩こう」の歌手、坂本九氏のほかの歌で「見上げてごらん夜の星を」」というのがありますが、この歌も「愚者」が、ちょうど17の「星」を見ているようなイメージが思い浮かびます。(「星」ではありますが、実は「太陽」のカードの意味と雰囲気もあります)
ともに永六輔氏の作詞ですね。歌手も作詞者もすでに故人であり、特に坂本九氏は、例の飛行機事故で亡くなられたという不幸なことがありましたが、世代ではないにしても、このふたつの歌は、なぜか、マルセイユタロットが浮かび、とても心に響くものがあります。※坂本九氏の「九」は「隠者」の数であり、「隠者」と「愚者」の関係性、「隠者」(導き)のランタン(光)とか、いろいろと面白い偶然性があると思います。
「上を向いて歩こう」では、「独りぼっちの夜」という歌詞が特に「愚者」ぽく感じます。
ただ、本来の「愚者」は、涙とか湿っぽいものではなく、むしろ逆で、ほがらか、楽天的、無邪気、極端に言えば能天気とさえ思えるものです。しかも独りぼっちではなく、犬のような動物が「愚者」の人物の後ろにいます。
それでも、「上を向いて歩こう」との共通点をあげると、やはり「上を向いている」ということと、その歌詞に、「幸せは雲の上に、幸せは空の上に」という部分があることでしょう。
マルセイユタロットの「愚者」も、上を向いて歩いているわけで、その関心は上方向で、いわば天上にあると言えます。
歌詞の「雲の上、空の上」が何を指す(示す)のか、いろいろな解釈があるでしょうが、マルセイユタロットの「愚者」になぞらえると、それは天上であり、宗教的には神の国、天国、スピリチュアル的には宇宙、大いなる世界、生死でいえば死後の世界、霊的世界、心理的に言えば集合意識、無意識や潜在意識、超越意識でつながる世界、認識でいえば、見えない世界、時間のない世界、永遠の世界、非日常の世界と言えましょうか。
その反対にあるのが、現実や地上的世界、時間の流れる私たちのいるこの世の普通の世界ということになりますが、「愚者」が上を向いているので、彼の関心はこちら、地上的世界にはあまり興味がないようにも見えます。
ところで、人はどんな時に上を向くのでしょうか?
希望を抱いている時、夢を思い描いている時、ワクワクしている時など、比較的ポジティブな状態にいる(なった)場合に上を向くように思いますが、一方で、その反対の落ち込んだ時、我慢している時なども、無理矢理ですが、上を向くケースがあります。まさに、「上を向いて歩こう」のような、「涙がこぼれないように…」というような感じのシーンです。
また、「下を向くな、上を向け!」と言われることもあり、これは、元気を出せ、落ち込んでいる場合ではない、やることをやれと、叱咤激励されるような場合です。
これらから考えると、人が「上を向く」というのは、結局、希望・夢・元気・気の取り直しのような、ポジティブに向けてのものだと言えます。
たとえネガティブな気持ちになっていても、上を向くことで気分が変わり、少なくとも、落ち込み、沈んでいた気分を、なにがしか変えてくれる効果があるようです。
本来、ウキウキ・ルンルンであれば、下を向くことはほとんどないはずです。であれば、上を向いている時の気分を再現するために、あえて上を向くという方法もあるでしょう。
人は動作によって、完全ではなくても、気持ちを変えることが可能なこともあるのです。ですから、上を向くことは少しでも明るく生きようという意思の表れでもあるでしょう。
それで、天上の話に戻りますが、マルセイユタロットの「愚者」は天上に関心があり、そこを目指して旅をしていると言えます。
ですが、大アルカナ、次のナンバー1の「手品師」になると、この人物は斜め下方向を見ていて、「愚者」とは真逆です。
ところが、このふたつを並べてみると、版によって違うとは言え、「手品師」の視線の先、つまりは「愚者」の足元(地上)は、水色にぬられていることがわかります。実は水色はマルセイユタロットでは、天上的なものを示すと言われます。
ここに面白いマルセイユタロットからの示唆・仕掛けがあり、天上を目指していても、地上で学ぶ(経験)することがあり、そして地上にも天上(性)があることがわかります。
要は、陰陽ではないですが、天と地がセットになってはじめて本当の世界・宇宙があると言え、このふたつの統合が鍵であるようにも思えます。
ただ、地上が嫌で、早く天上に行きたいと思う人もいるかもしれません。しかしながら、マルセイユタロットは地上(性)も重視しており、大アルカナでも、かなりのカードが地上性での経験を示しています。
さきほど述べたように、地上にも天上性があるわけで、そのまた逆(天上に地上性)もありなのかもしれません。
私自身も、「愚者」のように、地上より天上志向が強く、上を向いて歩いて、足元、地上が疎かになることがしばしばですが(苦笑)、地上にも天上性があるのですから、捨てる神あれば拾う神ありで、さらに言えば、真の完成には、どうしても地上・天上の両方との統合が求められ、そのためには地上での限定的経験も必要不可欠なのでしょう。
まさに、上を見ながら、下を歩くという「愚者」スタイルです。
それでも、地上では楽しいこともある反面、実際つらいことも多いわけです。ですが、その起伏こそが、天上とは異なる特徴なのだと思われます。
「上を向いて歩こう」の歌詞でも、「悲しみは星のかげに、悲しみは月のかげに」という部分があります。これは、奇しくも(霊性中心の)占星術的に、すごいことにふれていると個人的には思いますが(永六輔氏は意図していないにしても)、ここでは、地上の悲しみ、つらさは星と月の影にあると言っておきましょう。
スピリチュアル的に言えば、まさに星々の影であるのが悲しみで、それはつまところ、幻想であることを示唆しているようでもあります。
悲しみの反対の楽しみ・喜びでさえも、逆に言うと影かもしれません。結局は、感じるのは人ですが、それ自体はただのエネルギーの起伏と言えます。
それが地上の限定的・物理的世界では、あたかも本当のモノ・コトのように感じてしまうわけです。
そうは言っても、すべては幻想だからと割り切れるものでもありません。その実際感(リアリティ)からはなかなか逃れることができないものですし、本当につらい、苦しい(楽しい、うれしい)と誰もが感じるわけです。
ですから、せめて、時々、あえて上を向いて(歩く)ことで、地上性の喜びはここだけしか味わえないとかみしめ、逆の、つらさ・悲しみは、天上の戻る(行く)ための旅路、通過点だと思うと、何とか進むことができるのではと考えます。
そして、実は、「愚者」に犬がいるように、私たちは独りぼっちのようで独りぼっちではなく、常に寄り添っている(霊的、あるいは人によってはそれを体現している実際的)存在がいるのだと意識(見つける、見つけようと)することで、自暴自棄になったりするのを防いだり、客観性を得られたりすることもあるでしょう。
最後に、私たちは、本当は誰もが星や月を超えた世界を知っています。
星や月の影を超えたところに、私たちの本当の故郷があるのです。この現実の世界がつらく・苦しいものと思う方もたくさんいらっしゃるでしょう。それはグノーシス的に言えば、本当の場所でないから当然です。
しかし、これまた逆説的になりますが、だからと言って逃避的に生きたり、自らの死を図ったりしても、真に逃れることはできないとグノーシスは教えます。
脱出のヒントは「認識」にあるのです。だから、グノーシス(知ること、認識、叡智)なのです。
それが象徴されているのが、マルセイユタロットだと(私は)思っています。
コメントを残す