タロットと神の内在、神の外在
タロットで「神」という概念をどうとらえるか?
これは、なかなか難しいテーマだと思います。
私の扱うマルセイユタロットでも、そもそもマルセイユタロットもヨーロッパの産物ですから、基本的にその文化圏において「神」といえば、イエス・キリスト、あるイエスの伝える父なる神ということになるでしょう。
マルセイユタロットが形成されてきた時代で言っても、おおむねキリスト教カトリックの信仰する「神」の影響が、タロットにあるのも当然と言えます。
しかしながら、キリスト教と言っても、まったく同じ教義とは限りません。ローマ時代に国教化されて、やがてカトリック的な教えがノーマルになって行ったとしても、以前は、イエスを神ではなく、人間と見ていた教えもありますし、その中間的な立場におくものもありました。
さらには、今ではオカルト的に扱われている節もありますが、イエスの教えには秘儀的なものがあり、表に現れているキリスト教とはかなり違う、いわば、グノーシス的な教えが込められていたという話も伝わっています。
実際、中世の頃、東欧から南仏にかけて、異端派のキリスト教が流行った時代があり、例えばカタリ派と呼ばれる宗派も、善悪二元論的なものではありますが、グノーシス的(もっというと、古いペルシアや東方の宗教に近いよう)な雰囲気があったように感じられます。
グノーシス主義は、カトリック的な教えと反するもので、どちらかと言うと神は内在的なものであり、自己のうちに隠されてしまった神性・完全性を「神」として表しているところがあります。
一方、キリストは教に限らず、ほとんどの一神教的な宗教は、神を外側に置き、私たちや、この世界を創った偉大な創造神ということになっています。
厳密には外側(に存在する)というものではないとは思うのですが、布教のために、いつしか外在的に神を置く(人格神のような存在にする)ことで、人々にイメージしやすいよう変化していったのではないかと考えられます。
個人的には、グノーシス的な教え(の神)も、それと対立する外在的に神を置く宗教も、本当は根本的には同じものであったのではないかと見ているところがあります。
先述したように、宗教化した場合、信徒に神を理解してもらうことと、信仰者を増やす必要があるので、次第に神を、内より外側に置くようにされてきたのでしょう。
今、霊的な分野が「スピリチュアル」と言われて、ライトなものからヘビーなものまで、様々な種類に分かれて、宗教の域を超えて多くの人に語られるような時代になりました。
そして、共通しているのは、そういったスピリチュアリストたちの語るものの多くは、神の内在性です。
ですから、グノーシスにも近いですし、かなり昔の、大元の感覚に戻ってきている(戻るというより、一部は進化していると見ていいと思いますが)ように思います。
ですが、神の内在性という理論と感覚は、ともに難しいものです。従って、現代の霊性(スピリチュアル)を高めようとする人、そうした方向性を目指そうという人でも、いきなりの(神の)内在的認識は困難があるかもしれません。
宗教的には偶像崇拝が禁止されているものも結構ありますが、一方で、禁止されていても、実質は偶像(神の像)を作って、信仰している人たちもいます。
そのほうが、人間的に、神のイメージがしやすいからでしょう。
これと同様に、神の内在性(自身における神性の認識)をストレートに見出していくより、最初は神をあえて外在性に置く方法を採用し、例えば像や絵、モノ、仕掛け(舞台装置)などを、(自己の)神のイメージ喚起ツールとして使っていくのもありではないかと考えます。
祭壇、仏壇、神棚というものも、一種の神(神性)の認識のための仕掛けと言えましょう。
実はタロットにおいてもそれは言えて、神性認識のために絵のカードを使うわけです。おそらくマルセイユタロットの役割のひとつに、これがあると私は見ています。大アルカナがまずはわかりやすいツールでしょう。
どのカードにも、神性の表現がありますが、特に、「神」という言葉が出て来る16「神の家」というカードは、神性や自分にとっての神というものを考える(感じる)のには重要だと思われます。
またいずれ、「神の家」については書きたいとも考えていますが、大事なのは、マルセイユタロットの大アルカナナンバー16の絵柄でなければならないということです。
例えばウェイト版だと、名前も「塔」になり、その絵柄からは、恐怖しか感じさせません。
聖書的にはバベルの塔の話のモチーフと関係していると言われる16のカードですが、たとえ崩れるにしても、何が象徴的に崩されるのかということがわかっていないと、ただ絵だけに引っ張られ、誤解を与えしてしまうのです。
この点、マルセイユタロットの場合、塔は崩れておらず、多少の破壊的イメージはあっても、崩壊するような絵ではなく、むしろレンガなど、しっかり積みあがって行くことも感じられます。(破壊的でありながらも、実はかなり創造期・生産的・着実でもある)
「神の家」の検証には、ナンバー的には前後のカード、「悪魔」と「星」と比較するのが効果的です。特に、「悪魔」との対比は、神と悪魔という名前だけからしても、非常に意味深いと言えます。
ただ、「悪魔」も、マルセイユタロットの場合、一般的な悪いもののイメージで悪魔をとらえていては、それこそ「悪魔」の罠に陥ります。
高次になればなるほど、善悪の概念(観念といったほうがいいかもしれませんが)は、普通の人間には理解しがたいものとなっていくからです。
その点で言えば、マルセイユタロットにおける「神の家」と「悪魔」は、非常に高次の善悪だと表現してもよいでしよう。
そして、ここが肝心なのですが、高次でも低次(通常の人間状態)に入り込んでいて、言ってみれば、普通の生活においても、神の家とか悪魔を意識することは可能だということです。
もっと簡単で宗教的な言い方をあえてすれば、神の御心にかなう生き方と悪魔を退ける(負けない)生き方として表されます。
それは一見、低いレベルの善悪のようではあるのですが、高次の善悪のエネルギー(影響)を受けているものであり、それが自覚できた時、自身のうちに本当の(神の)力が宿ることになると思えます。
これは神の内在の自覚であり、外在的な神の感覚では、神がおられること(神の恩寵)の実感でしょうか。
とにかく、神の内在(の理解)にも外在的なモノを介してのルートがあり、それはマルセイユタロットを使うという方法にもあるという話でした。
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