年初に当たり、マルセイユタロットから。
明けましておめでとうございます。
と言ってもいられない、元旦からの災害、事件の数々に日本は見舞われています。災害や事故に遭われました方々にお見舞いと、犠牲になられた方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
このような状況では、タロットをする者にとって、あるいはタロットに関心がある方は、やはり、どうしても、「今年はどうなのか?」とタロットを引き(展開し)たくなると思います。
そうでなくても、年始にはタロットを引くのが恒例という方もいらっしゃるでしょう。
私も状況とは関係なく、毎年、全体と個別(自分)について、マルセイユタロットを引いております。
ただ、昨年末の記事にも書きましたが、このように「年をテーマにタロットを引くこと」には、占い的な見方と、そうではない見方の二つがあると思えます。
前者は、主に「どうなるか(どんな年なるのか)」という見方であり、後者はそれ以外で、代表的なものには、「(今年は)どうすればよいか」とか、「(今年には)どんな課題や意味があるのか(を見て、その対処方法も考える)」というようなものです。
言い方を換えれば、受動か能動かの違いと言えましょう。
別にどちらかがよくて、どちらかが悪いと言いたいのでありません。「どうなる?」ということに関心があるのも人情ですし、かと言って、受け身だけの姿勢では、マルセイユタロットで言えば「運命の輪」に翻弄される、輪の中の二匹の動物のようになるばかりです。
物事の変革には、自分から打って出る、自分が変えていくという能動的態度も必要でしょう。それでも、意識高い系(笑)ではないですが、そうした積極的な姿勢ばかりが強調されるのも、人間、苦しいものです。
一人の力では、できないことも多いですし、(自己の)無価値観にとらわれる人も多くなっているからです。
特に今の日本人の多くは、自分に価値が認められないという方が増えていると思います。
昨年には、ラノベ・アニメに、「異世界転生もの」が増えている理由を書きましたが、そこからさらに付け加えると、自分に価値があるのか(いや、ない)、何かの役に立てるのか(いや、役立たずだ)という無価値感を多くの人が感じているからこそ、異世界で自分の価値が認められる環境に転生したいという物語が描かれるのだと感じます。
無価値感は、つまるところ、生きる価値につながります。“自分は生きていていい(存在な)のか”という究極のテーマです。
スピリチュアリストや心理系の方々は、自己尊重、自分に価値を自身で認められる大切さを言います。
ですが、現代社会の中でそれを獲得・回復するのは容易なことではないでしょう。たとえ一時的にそれができても、これだけ多くの人と比較される情報過多の時代にあっては、自分に自信や価値を持つことはなかなか困難だと思えます。
私たちの現実は、一人一人違った個性をもった人と共存してる世界です。ゆえに比較はつきものであり、資本主義自由経済のもとでは、価値を決める中心は競争になります。
当然ながら、どの分野においても勝ち負けが出て、少数の勝者とたくさんの敗者という構図になります。そうなりますと、たとえどこかで勝っていても、どこかでは負けるという仕組みにもなってきます。
言わば、誰もが敗者の感覚を持つことになります。それが自己の無価値感にも関係してきます。
結局、この個性の世界を、比較と競争だけに価値を決めていくシステムにすると、逆に没個性となり、自分に対しての無価値感が増大していくことになると考えられます。
ですから、それを逆手に取り、一人一人違うということは、比較ではなく、加不足・得意不得意など、アンバランス性を助け合うことによって補い合い、完全性を全員で作り出し、共有し合うという観点が大切になるのではと思います。
実は、今年について、全体向けに引いたマルセイユタロットカードは「正義」でした。「正義」は公平なバランスを象徴するカードでもあります。
マルセイユタロットの大アルカナは(目指すべき)時代性も表すと私は考えており、その思想では、「正義」から「節制」までの時代へのシフトというものを見ています。ですから「正義」に始まり、「節制」へ至るというのが、ある意味、近年においての目指すべき完成型だと言えるわけです。
「節制」は、救済の天使を象徴します。この天使は、ふたつの壺を混ぜ併せていることから考えても、助け合いの精神と行動が示唆されていると見ていいでしょう。
自分はなになにができないということで、無価値感に襲われても、誰かを助ける、誰かの役に少しでも立つという実感で、自己の価値は高まります。
誰かの欠点は誰かの長所でカバーでき、個々として不完全でも、全体として見れば、実は完全なる世界であるという自覚が、皆にできる次元です。
それは生きていて当然と思える世界であり、生きているから助けられ、助けることができるのだということが当たり前の感覚の社会でもあるでしょう。
「正義」が出たということは、表面的には厳しい状況、自律(自立)性、現実を直視することなどが表され、決断力、規則やルールが必要であることがうかがえるものですが、その奥底には、本当の価値を取り戻すための宇宙的(本来の霊的な普遍の)バランス復活のための、各々の気づきが示されているではないかと思えます。
これを「そうなっていく」という、受動的なメッセージとして受け止めるのもよいのですが、「そうしていく」という能動的で強い意志を持つほうが、実現力は高まるように思います。
今年は不穏なスタートではあるのですが、だからこそ、私たちが忘れていた本質の部分、隠されていたよい面がクローズアップされて、現実にも表現されていくものだと推測されます。
2024年は、まだ始まったばかりなのです。
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