迷いや悩み 天上的・地上的見方

人間生きていれば、迷いや悩みの連続と言えます。

その程度は人それぞれであり、ほとんど悩みなしの人もいれば、毎日、いや毎時間、何かしら悩みを思って過ごしてしまう人もいるでしょう。

私はもともと不安を感じる傾向が強いので、なかなか安心という境地にはなれず、いつも悩みを抱えている種の人間です。

ただ、そうした私だからこそ、特にマルセイユタロットを通して、自分のこのような傾向に対し、どうすればよいのかも考え、実践してきました。

今日は、そういった話を少々したいと思います。

まず、悩みを解決する前に、自分がどういう種類の人間であるかを自覚しておくとよいでしょう。

この世の中は、誰一人として同じ人間のいない世界ですから、いわゆる個性というものがあり、他人の意見とか解決法は参考にはなっても、自分にぴったり適合するとは限らないからです。

もちろん、万人に効く薬とか方法もあるわけですから、「人」として共通の部分もあるにはあります。しかし、やはり悩みとその解消(対応)には、基本的にオーダーメイドの世界だと思ったほうがよいでしょう。

例えば、感じ方が平均的な人より敏感な場合もありますし、もともと幸せ(幸福・安心)を感じやすい人と、そうではない人がいると言われています。(もはや遺伝子レベルの話ですが)

Aさんにとってはこの程度で幸せとか安心だと思うのに対し、Bさんではその半分以下なこともあるのです。

従って、自分が一般的(これも数値では出にくいので、何が一般とか平均かと言われると難しいのですが)なものと比べて、高いのか低いのか、また、何をもって安心とか幸せと感じるのかということを、少しは知っておいたほうがよいのです。

次に、本日のテーマでもあるのですが、特に言及したいのが、悩みについて、地上的観点から見るか、天上的観点から見るかを考えるということです。

このふたつは、言い換えると現実的か精神的か、短期的か長期的かでもあり、要するに、人生全体(長期・天上)としての見方をするか、その場その場でのシーン(短期・地上)として見るかということでもあります。

ちなみにマルセイユタロットでは、天上的が大アルカナで、地上的が小アルカナといったところであり、さらに大アルカナの中でも、より天上的か地上的かも問えますし、小アルカナでは地上的な中でも、どういった性質が優先されたり、重視されたりするべきかということも、タロットリーディング(またはタロットの活用)によってわかります。

ここではマルセイユタロットを持たない人でも、このふたつの観点(地上的・天上的)を持ったほうが、悩みに適切に対処しやすい面があることを述べておきます。

人間の現実的・地上的悩みと言えば、マルセイユタロットの小アルカナ4組に象徴されるのですが、それは知識・情報・価値に関すること、心や感情、関係性・承認に関すること、行動や生きがい、情熱に関すること、お金・経済・健康に関することなどとして、主にあげられます。

このすべては基本、地上的であり、究極的なことを言えば、亡くなってしまえば消えるものです。(笑)

そう、この亡くなってしまえば消えるものという見方が天上的と言えます。天上的な観点は、言わば、人生の終わり(亡くなった時に振り返るような)視点です。

一方の地上的な観点は、まさに現実で悩んでいることになり、生きていれば必ず誰しもに起こる悩み事と言えましょう。

これは人生の経過中の見方になりますし、生まれた時から今まで、またこれからも含む観点で、そうすると、一見全体的なようでいて、実は「今」この時(の選択や対応)が重要なポイントとなるものです。そういう意味からも、やはり、経過中の観点というのが妥当かもしれません。

先述したように、地上的な悩みのほぼすべては、死んでしまうと消えると思えるものです。

それは、生きている間に比べられる「差」から生じていることがほとんどだからです。

他人と比べるだけではなく、自分自身の中でも比べるわけですが、それは肉体という存在があってのことで、これがなくなれば、問題は心のものくらいになりますが、それも現実的な問題は不足感(満たされていないこと、快ちよくない状態)から出ているものであり、不足を感じることができなくなれば消失するものでもあります。

死ぬとおそらく肉体がないことで、不足感(ほとんどは肉体を通して感じているものであるから)とか不快感もなくなると思われますが、もし肉体がないのに、肉体があるように思ってしまうと、それは結構つらいことになるのかもしれません。

食事で例えれば、お腹が減ることはないのに飢餓感はあり、でも食べることができないという、奇妙な状態です。

たぶんこれが(生きていた時の)執着であり、執着が強いと、お金であれ、愛情であれ、モノであれ、肉体あっての自分として、相手や対象を認識し、それを信じ込んでいると、死後、大変なことになると危惧されます。

よって、やはり終活に向けては、肉体・モノから来る執着をどんどん薄くしていくようにするのがよいのではと考えられます。(これも無理にすると、逆効果ではありますが)

それはさておき、実際の生きている間のことが問題ですよね。

しかし、ここでも、地上的観点ではなく、天上的観点で悩みや問題を思うと、不思議と、いい意味のあきらめが出たり、これもよい意味で、どうでもよくなってきたりする時があります。

長い目で見ると、あるいは、人生の最後から見ると、今、悩んでいることはどうなんだろう?という見方です。

その人でなければ、そのモノでなければ、その〇〇でなければ、本当にダメなのかどうか? ほかでもよいのでないか? あるいは、それがなくても生きること自体、自分という本質には問題がないのではないか?

と、このように思っていくと、悩みはあっても、何とかなる、悩みを受け入れて生きて行こうという感じになる場合があります。

大事なのは、肉体・物質としてはかられる「量」ではなく、経験した「質」だと、天上的観点からは言えます。

ただし、つらい、哀しい、悔しいなど、否定的な性質の類がたくさんあり過ぎると、それを何とかしたいという思いの後悔が残り、結局執着にもつながりますから、こうならないような、地上的対応、観点は必要かと思います。

また天上的観点が過剰になっているケースでの問題は、無気力感、厭世観、独善的気質を生み出してしまうことです。本当の天上的観点とは、何を最後(最期)に持って行くことができるか(量・肉体・物質ではなくて)なのです。

すると、何もなかった、生まれないほうがよかったみたいなことでは、(人生の)終わりから見ても本当に空しいものになってしまいます。

もしかすると、死後の裁判では、「何もなかったのなら、今度は何かある人生を経験せよ」と裁きが下るかもしれません。あくまで、輪廻転生とかカルマ的なものがあると仮定した場合の話ですが。

天上的観点ばかりを言っていますが、地上的観点も重要です。むしろ、スピリチュアル傾向のある人は、この地上的観点をもっと入れたほうが、悩みに対しても有効と言えます。

地上的観点の特徴は、時間・空間限定ということです。また、個性(一人一人違い)があることも言えます。

要は、効率性と個別性があるということです。効率性があるので、正解と間違いははっきりしますし、非効率なものは間違いと言えるケースも出るわけです。

個別性では、正解と間違いの区別は難しく、ひとり一人の正解は違うとも言えます。

それを考慮したうえで、特に時間限定を意識して選択すると、地上的観点では効果が高くなります。それに空間(場所)も、それに応じた効果のあるなし、効率・非効率があるので、そこも無視できないところではあります。

つまるところ、地上的観点から、悩みに対しては、短期的な効果での最善を目指して行動し、同時に、天上的観点として、人生の終わりから眺めることで、悩みへの受容精神(受け入れる気持ち)を併せ持つとよいと思います。

地上的に見てダメな時や、どうしようもないと思えるような場合においては、経験の質を取る(地上的な吉、満足、快楽、安心、幸せが得られるかどうかという観点ではなく、それから何が質として得られるか、どういう意味があるのかを考える)という見方をすると、(新たな)生きる道も現れて来るでしょう。

一言で言えば、「何とかする(しよう)」という気持ちと、「何とかなる」という思いとの両方を、悩みに応じて持つという感じでしょうか。

マルセイユタロットで例えるなら、「世界」のカードと「手品師」のカードの同時象徴性のようなことです。

どの道、あなたはあちらの「世界」に行くのですが、「手品師」として、今いる現実で、もがいて色々と試し、経験することも、こちらの「世界」では重要だと考えられます。

そしてまた、謎かけのような話(笑)ですが、あちらとはこちらでもあり、こちらはあちらでもあるのが、マルセイユタロットからの示唆になります。

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