自分のことはわかりづらいので…

マルセイユタロットの活用で、自己洞察とか自己省察(厳密な意味では、ふたつは違いますが)、要するに自分自身を見る(知る)というものがあります。

個人的には、マルセイユタロットの活用では、それがもっとも現実的な意味で重要かと思います。

もちろん、他人へのリーディングとか、ひいては占いをするというのも悪いわけではありせんし、活用のひとつではありますが、本来、タロットは自分のために使うものというのが、しっくりきます。

※ついでに言えば、他人へのタロットリーディングも、見方を変えれば、自分のためにやっているようなものでもあるのです。

さて、自分を見るためにマルセイユタロットを使うわけですが、しかし、別にタロットでなくても、自分を見る方法はたくさんあります。

あくまで、(マルセイユ)タロットを使って、自らを知る方法もあるよ、というだけです。

さて、この自分を見る、自分を知るということは、意外に難しいものです。

特に自分の内面がどうなっているのか、もっと詳しく言えば、自分がどんな感情や思考をしていて、何を信じたり、価値を置いたりして、現状生きているかということは、とてもわかりづらいです。

外面ならば、それこそを見たり、に見てもらったり(おかしな状態だと、人から指摘されることもあるでしょう)すればわかりますが、内面はそういうわけには行きません。

内面でも、表面的のもの、自分で意識している(自覚している)部分はわかるかもしれませんが、潜在意識とか深層心理の範囲まで来ると、本当に自分だけではわからないものです。

瞑想などの方法で、自分の中に深く潜行していけば、やがて潜在的な部分も見えて来ることもあるのもしれませんが、通常、なかなか難しいと思います。

スピリチュアルとか心理の世界では、自分の内面を知ることが重視されますが、これも個人的な感想になりますが、おそらく自分自身で、ただ自分に意識を向けるだけでは、それは困難だと感じます。

こう言ってしまえば元も子もないのですが、自分のことは自分一人ではわからないようになっている仕組みが、この世界のデフォルトみたいなものだと思われます。

しかし、これも、マルセイユタロットの「吊るし」の象徴のひとつだと考えられますが、逆転の発想で、だからこそ、他人や外部の状況、何かの道具など利用して、自らを知ることができるのではないかと考えます。

自分で自分の姿を本当は見ることができないのと同様(鏡は反転した姿です)、自分で自分を知るのはできないのかもしれず、ですから、上記のように、逆に外のものから自分を知るようにするのがいいのかもしれません。

少し意味は違いますが、ことわざでも、「人のふりを見て我が身を直せ」とあるようにです。

そして、マルセイユタロットは、そうした内面を外側から知る道具なのです。

必ずしも、潜在意識とは言いませんが、何かしら自分の気づかない思いや気持ち(自覚しているものも含めて)を、タロットカードが表すわけです。

タロットでなくても、ほかの様々なカードとか、その辺にあるモノとか絵とかぬいぐるみとかでも、これは可能と言えますが、タロット、特にマルセイユタロットの場合は、象徴システム的に精緻にできていますので、場とか空間の意思(自らを内包するもの)を反映しやすいことがあげられます。

言い換えれば、(象徴度合の)精度が高いというわけです。

しかし、ただタロットを引くだけでは感覚的なことしかわかりません。

そこに一枚一枚の象徴図の意味を知っておかないと、言わば、理解ができないことになります。ここでの「理解」とは「理(ことわり)が解る」と書くように、感じた感覚の理由を示すものです。

そして、ここがタロットリーディングの良さにもなってくるのですが、自分から分離する(したように見える)ほど、客観的になりますので、自分でタロットを引いて自分で解釈するより、人にやってもらったほうが、自分の気づいていない部分にふれてもらえる可能性が高まります。

これはつまり、癒着した状態ては自分がわからないからです。

融和を標ぼうし、二元分離を嫌うライトスピリチュアルに毒されるとわからなくなってきますが、意外に、分離意識こそが統合や融合への道になるのです。(ここでの分離意識とは、完全性・ありのままから分離した悪い意味での分離意識とは別の、切り離して観る客観姿勢のことを言っています)

それでも、タロットカードを使うこと自体も、言ってみれば、切り離しの行為(道具を使うことで)のひとつなので、自分でタロットを引いても、やり方によりますが、自分を知る一助になるのです。

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