選択で使わないタロット
タロットで何かを決めたいと思う人は、タロットを使う人では多いと思います。
というより、そのような、何かの選択に迷った時にタロットは使うものだと考えている人が普通かもしれません。
いや、別にそれでいいでしょうし、私自身は、タロットの活用に正解とか間違いもないと思っていますので、まさにタロットを使う人の自由だと言えます。
ただ、〇か×か、やるのがよいのか・やらないほうがよいのか、つき合えるのか・つき合えないのか、得か損か、成功か失敗か、正しいか・間違いか…などなど、ふたつの見方で悩み、選択していくことをタロットに求める場合、その時その時の答え(示し)はタロットが表してくれるでしょうが、そもそも論として、この方法を取り続ける限り、本質的な問題は見えてこないままです。
この場合の「そもそも論」とは、「なぜ自分はこのようなことで迷うのか?」という根本を指し、さらに言えば、選択する自分の価値観、規準、心の中の傾向と法則、もっと深く言えば、天命やカルマなどのようなものの影響の分野から見ることを言います。
メガネで例えると、かけているのが色メガネであればその色で見えますし、曇っているメガネならば、視界は悪いままです。
もし、度数が合わないメガネだったり、レンズに歪みがあったりすれば、その見える世界はおかしなものになるのは道理です。
これと同様、もともとにあるあなたの根本に問題があれば、いくらよい選択をしたと思っていても、その「よい」自体の規準がおかしかったり、曲がっていたりするので、結局、短期的にはよいように見えて、本質的には、ある意味、間違った状態の世界でループするようなことになります。
マルセイユタロットには、グノーシス的な思想が流れていると伝えられますが、そのグノーシス的な観点を具体的・個人的次元にまで落として考えてみれば、つまるところ、個人の誤謬のようなもので、その人自身によって外の世界や見方がつくられていると言ってもよいでしょう。
グノーシス思想には、真(神性)の認識と、それを歪める悪魔的なものとの対比(対立)が神話的には語られますが、さきほど述べた個人レベルになってきますと、要するに、悪魔とは自分自身が生み出している、不正な個人ルール・価値観みたいなものと言えましょう。
やっかいなのは、その個人ルールが不正ではなく、正しいもの、よいものと自分は思っているところです。
それはある意味、仕方ないところもあります。なぜなら、個人ルールは自分を守るためにあるからです。
自分を守る意味では正解とも言える方法なので、表面意識はもとより、潜在意識的にも、自分の今採用している規準は正しいと疑わないのです。
というより、疑わさせない存在が自分の中にいると言い換えてもよいでしょう。それがマルセイユタロットのカードで表現されている「悪魔」とも言えます。
ということは、悪魔ではない存在も自分の中に存在し、それが西洋的には「神」とされているわけです。ちなみに、マルセイユタロットの「悪魔」の次のカードには、「神の家」という神の名前がついたカードがあります。
本来、西洋的に言えば、その神と同調した意識のもとでは、人間全体、そして個人も、自然な形で生きられ、その都度、問題は起きても、これまた自然に解消されていくことになると考えられます。真の意味での自然体です。
個人には「個性」があるので、生き方とか感じ方は一人一人違ってはくるのですが、例えば占星術で表されるような天命、今生の流れ(シナリオ)のようなものがあり、無理からに他人の表現をしなければ、自ずと自分自身の個性を発揮して、全体に貢献できる生き方になっていくものと想像されます。
しかし様々な形で、他人と比べていく中で、どうしても肉体・能力・社会的出来不出来(優劣)、モノやお金の所有量など、有る無しの観点が強く働き、自分が自身を認められないばかりか、自分を貶めたり、逆に他人にマウントを取って自分の欠乏感を補おうとしたり、あくまで外のものを規準として自分の存在を成立させているため、日々、緊張して苦しい生活となります。
自分を守るためには、何かしらの言い訳とか、自分があきらめたり、逆に、こんな自分でも(これをすることで)生きていて許されるよね、と思わせたりする見せかけの理由を作り、それをルール化するようになります。
そして、これ(自分が作ったルール・規準)をもとに、いい・悪いを判断し、選択する道になってきますので、一時的にはその選択がうまくいったよう見えても、実はどこまて行っても、偽の自分であり、本当の心は怯えながら生きていくことになるわけです。
従って、「どちらを選ぶのがいいか」という単純なタロットの使い方は、本質的には、何の解決にもなっていないことになるのです。
ではどうすればいいのかと言えば、タロットを使う場合、ふたつの間でどちらがいいとか悪いとかを見るやり方自体を変えることです。
それにはいくつか方法がありますが、簡単なのは、タロットの展開方法を変えるやり方です。あるいは、よい・悪いをタロットカードにあてはめないことです。(よいカード・悪いカードというような見方をやめる)
展開方法を変えるというのは、二元的な展開法・スプレッドはやめて、統合的(二元的な観点を超えたもの)に判断できるやり方を選ぶということになります。
例えば、正逆で、正立はよい、逆向きは悪いというのは典型的な二元的見方ですが、正立と逆向きをセットで出し、いい・悪いではない意味を見て行けば、二元的判断を超える見方が可能になってきます。
とは言え、二元的な展開法(または二元的に解釈する見方)は、ほとんどの有名なスプレッドはこれに当たるので、注意が必要です。
しかし、従来のスプレッドであっても、「なぜこの悩みが起きているのか?」という、その意味を見るような質問とか見方に変えることで、二元的なことから逃れられます。
そうしていくことで、自分自身を縛っていたものに気づき、そこから出ていた世界への(見方の)歪みが修正され、本来の自然な自分、西洋的に言えば神(スピリチュアル的にいえば宇宙とか大いなるもの)の意思と同調した自分に還って行き、この地上世界を不安や恐怖ではなく、体験そのものとして味わうことができるようになってくると考えられます。
ただ、一気にジャンプするというより、コツコツとした姿勢と行動が必要だとも言えます。それだけ根深く、長く自分を守ってきた証でもあるからです。
繰り返しますが、別に二元的選択をタロットで見ることを否定しているのではありません。それもタロットのひとつの活用です。
しかしながら、自分自身が変わらないままタロットを使っていても、それはただのエンターテイメントであるとも言え、自分を元に戻すために、タロットは使っていくべきで、それはほとんどの人にとっては、今の自分を変えることになるので、むしろタロットは自分を変えるために使うほうが望ましいと考えられるわけです。

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