ある数を見ることについての意味

タロットは数と無縁ではありません。

それどころか、数カードとか数札と呼ばれる小アルカナのパートもありますし、大アルカナと呼ばれるパートには、ひとつのカードを除いて数がふられています。

それに、カードの構成、パートごとの枚数などにも意味があり、タロットと数は実は厳密な関係性をもって配されているのが、詳しく見ていくとわかります。

伝統的なタロットほどそのようになっており、マルセイユタロットはその典型と言えます。

これとは別に、数とは無関係の創作系のタロットもあり、それはそれで製作者の意図があるものとは思いますが、というのは、私たちが思う以上に特別なものであり、宇宙・神のオーダーを表すとともに、私たちの人間レベルの現実世界においても、数がどこにでも見られるように、基本となっているものなのです。その数にタロットが配慮するのも当然と言えます。

しかしながら、数秘術というものがあるように、数単独での象徴体系があり、それはまたタロットの絵柄を中心とした象徴システムとは異なってくるところもありますので、立場によって、数を中心として見るか、絵柄を基本として見るかによって、タロットの扱い、読み方も変わってくると言えましょう。

ですから、無暗に数秘術の概念をタロットに当てはめて読むというのも、考えもののところがあります。

さて、今日はそんな数について、少しタロットと離れるかもしれませんが(でも関係性があるものです)、話題にしたいと思います。

皆さんはラッキーナンバーとか、逆に不吉な数とか思ったことはありませんか?

またゾロ目とか、よく見かける数とかに、意味があると意識したことはないでしょうか? エンジェルナンバーなどと言う場合もありますよね。

おそらく、タロットに興味も持つような方ならば、そういう数について、特別に何か気持ちとか思いを持ったり、意味を見出したりしたことはあるでしょう。

そうした、数が何かを自分に告げているかのように思う(意味があるとする)見方はどうなのか?を考えたいと思います。

私の考えは、一言で言えば、それは「意味がある」「メッセージだと取ってよいケースもある」となります。

一方で、ケースバイケースであり、人によって意味合いが大きく異なってくるということも述べたいです。しかも、究極的には意味がないと言ってもいいでしょう。

こう書くと、わけがわからないかもしれませんね。(笑)

もう少し別の言い方をすれば、(特定の)数に(ある)意味を思うのは、その人がその世界観にいるからということになります。

例えば、3と7がラッキーナンバーで、4や9は不吉だと思っている人は、そういう自分の世界が形成されているのです。言わば信仰の世界に近いです。

人は自分が信じた世界の中で生きることになりますので、その人にとっては、その数は、自分が思う通りのメッセージを見せるわけです。

誰が見せているのかと言えば、自分自身です。

これがもはや個人ではなく、ひとつの国とか文化レベルで作られてくると、ほぼその文化圏すべての人が、その数の意味を信じることになります。

たとえ普段は信じていなくても、幼少の頃から物語とか大人の話とか聞かされたり、見たりするので、潜在意識に刷り込まれて行き、無意識にそういう意味に感じてしまうようになると推定できます。

タロットの大アルカナナンバー「13」も、西洋文化圏では不吉な数とされてしまいましたので、だいたい絵柄も一般の人が想像するような「死神」的イメージのものになっていて、怖がられますし、実際カードとして(一般では)あまりよい意味では読まれません。※だだマルセイユタロットの「13」も、本来の13という数も、死神的な意味ではないので、注意する必要はあります。

スポーツの背番号、部屋番号などでも、13は西洋文化圏では避けられることが多いです。

文化圏レベルでもそうなのですから、個人レベルではなおさらで、自分にとってラッキーな数、不吉な数なども、自分の中でルール化されている人がほとんどです。(たいていはその国や地域の文化、自己の経験からのものが多いですが)

ゾロ目なども、同じ数がそろうことがそもそも確率的には希なので特別感があり、そこに何らかの意味を持たせてしまうことは想像に難くなく、いつしかゾロ目にも意味がそれぞれ与えられ、これも一種の固定観念のようになり、ゾロ目の特別性もあって、つけられた意味が(本やネットなどで読み)その人に印象深く入って行くことになります。

では、結局、自分が信じた数の意味、世界観がすべてかと言われれば、そうでもあるし、そうでもないとも言えます。

何といいますか、数自体に意味がないわけではないのですが、人が思う、自分にとっての数の意味と、それを見て思うことというのは、次元が異なる話なのです。

これは輪廻転生とかカルマがあるかないかの話にも似ていて、もしあると考えれる人でも、個の行為としての(人間の考える)善悪レベルで見るのか、もっと宇宙的な規模で見るのかによっても話が変わってくるのです。

ある数を見てメッセージだとか、何か(特別)の意味があると言う人は、そういうお知らせの仕方・方法を選ぶ(告げてもらう)世界にいるという話なのです。

そしてその受け取り方や解釈も、吉凶とか、イエス・ノーとかの判断の根拠にするようなもののレベルの人もいれば、多くのメッセージの中のひとつに過ぎないと見たり、数そのものよりも、数を見て思うこと自体に何らかの意味を見出すレベルの人もいたりするわけです。

自分の世界観レベルが拡大し、抽象度が上昇して、象徴として全体性がより深遠に見えて来るようになれば、数に一喜一憂したり、特定の数に引っ張られたり、それを見ようと意識したりするようなことはなくなり、数自体より、数の背景にある幾何学的な構造とか、大元のようなものに意識が向かうようになると思います。

そうして、やがて算用数字的な数を見て、何か思うというようなことはなくなってきて、特別な数で自分に何か知らせるというスタイルのレベルを卒業する(そういう世界から脱却する)ことになるでしょう。

自分に意味ある数で状態を知るという方法は、逆に言えば、数(という象徴と意味)でないと自分はわからないという設定にあるわけで、これが恣意的に、あるいは分離的(二元的・損得的・エゴ的)意識状態に傾いていると、自分にとって吉と思える数、自分が受け取りたい(たとえばGOと言ってほしい、この人は運命の人だと言ってほしい、お金が入ると言ってほしい、病気が治ると言ってほしい、問題は解決すると言ってほしいなどなど)メッセージだと思う意味の数(ゾロ目とか特別な数を含む)を見るように自分を仕向けることになります。

自分の心が結局外と関係し、心の内を見せられるわけですが、数に限らず、見たいと思っているものも見せられますし、反対に、避けたいと思っているものも見せられるわけです。

ここに、いいもの・悪いものという分離した二元的な価値観中心で自分がいると、見たいものなのか、見たくないものなのか、自分が本当に望んでいることなのか、そうではないものなのか、わからなくなり、混乱するでしょう。

言わば、全部自分が見たいものなのですが、こうなることは嫌だ、避けたいと思ってしまうことも人にはあるので、それは見せてほしくない(見たくない、起こってほしくない)と思うのですが、自分の奥底では、それが見たいと言いますか、見ないことには本当の意味で、まともな自分自身に戻ることができないので、嫌なことも見せられるわけです。

だから自分がよく見る数は、何かのシンクロで意味あるメッセージなのか、ただの偶然で意味ないものなのかと悩む時点で、マルセイユタロットで言えば「運命の輪」の輪の中の二匹の動物状態にあり、つまるところ、どちらでもなく、強いて言えば、その世界にいる自分の設定においては、何らかの意味あることだと言わねばなりません。

言っておきますが、ただの偶然ではないことは確かで、世の中に本当は偶然はないものだと考えてもよいでしょう。

ですから、よく見る数とか、特別に何かあるのではと思ってしまう数を見たということそれ自体は、確かに偶然ではないのです。

しかし、その数によって、ラッキーだの不幸だのと、ふりまわされるのは、そうした世界に自分がいたいだけであり、そのほうが自分にとっては都合がよいからなのだということも、覚えおかれるとよいでょう。

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