目標ある人生、ない人生。

以前にも書いたことがありますが、物事を終わりから見るか始まりから見るかによって自分の行動もずいぶん違ってくるものです。


これはわかりやすく言えば、目標や理想、終着点から逆算して行動するか、あるいは目標が見えなくても、行動しながらやりたいことや使命を発見するというようなことです。


前者は明確な目標・ゴールへのイメージがありますから、非常に推進力やモチベーションも高くなると言えますが、あまりに高い目標や到達事項であったり、自分がうまく目標に向かって進んでいないと感じたりすれば挫折しやすいという欠点もあります。


勢いが強いだけにブレーキがかかると転倒するおそれも強くなるのです。


これに対して目標を決めず、とにかく何かをしていく中で、自然と自分のやりたいことが見つかってくるということの場合、あまりモチベーションや勢いはありませんが、その分変化に対応しやすいですし、あせりというものが少ない利点があります。


とはいえ、いつまでもふらふらと目的も定まらず、気付くといつの間にか年を取り、ほとんど人生が終わってしまっていたということもあります。


結局どちらがいいのかはわかりませんが、ただタロットをする私が思うには、やはり崇高な目的・目標を持ちつつ、時にはそれを忘れてもよい自由さを許容するというふたつの思考があればよいのではないかと考えます。


ここでいう崇高な目的というのは、いわゆる普通の現実的な目標というものとは異なり、一言でいえば霊性と人間の完成、悟りのようなものです。


ですが、これはまず通常では無理だと誰しも思います。


それでも現実離れともいえる目的だからこそ、途上での実現できないあせりや挫折というものは少なくなるのでないでしょうか。


また崇高な目標であるので達成しにくい分、「これでいい」と自分を満足させることなく、「まだ先がある」と自分を律し、あらゆるものに対して謙虚になることもできます。


ここまで書いてくると、カモワン版マルセイユタロットを知る人は、「タロットマンダラ」のことを言っているのだということに気がつくかもしれません。そう、その通りなのです。


タロットマンダラは究極の目標と道筋が描かれていると同時に、その途上で自分の使命を発見することや個性の活かし方、自己実現といったことも含まれ象徴させています。


ですから、先述した始まりから見ることと終わりから見ること、両方の特徴を併せ持つのです。


そして結局、私たちはそれぞれが「愚者」であることを悟ることになります。

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