「たとえるもの」としてのタロット

タロットは今までの自分の考え方や思いこみ、とらわれをはずしていくのには大変よい道具です。
それはひとつには、タロットの絵柄があらゆることを象徴しているので、自分の心や人の心、世の中や世界のことを改めて象徴的に「客観的に」ながめることができることが大きいと言えます。
実はこれは簡単にいえば、「たとえ」という方法の一種なのです。
人は何かを別の物事にたとえるという手法を実はよくやってるのですが、そのことの自覚や効果をあまり知りません。
たとえば・・・(と今私がやろうとしていることもまさに「たとえ」です)
喫茶店やレストランで人と会話をしている時、思わず事柄を説明しようとして、テーブルにおいてあった調味料のびん等を、人や物として見立てた経験はあるでしょう。
また自分の言葉から「言ってみれば・・・」「つまりは・・・」「それは○○でいうと、△△のことだよね」という表現が出たこともあるはずです。
タロットをこれを「絵柄のついたカード」でやっているのです。
「たとえる」ということは、そのこと自体をそのまま示すのではありません。あくまで「たとえ」ですから、本物の仮の形だとも言えます。
しかし、誰しもが直接同じことを見たり、聞いたり経験できるわけではありません。
あなたが経験したつらいこと楽しいことも含めて様々なことは、それ自体をまったく同じ時間と空間、舞台、人間、環境配置で他の人に経験させることは無理です。
厳密な意味で同じ経験もできませんから、あなたの感じたことを他人にまったく同じように理解させることも本来はできないものです。
ところがたとえ話だと、すべてが同じとは言いませんが、他人にもあなたの経験をある程度理解させることができます。
それは、あなたの経験(理解)と他人の経験(理解)に共通しているものがたとえ話にはあるからです。
人とは異なる経験や理解なのに、他人にもわかるのが「たとえ」なのです。
ここで大切なのは、共通しているものがあるということです。
たとえ話がお互いに成立するのは、たとえ話自体の「たとえ」がともに経験しているか、理解しているかが鍵となります。
「たとえばサーフィンでいえばですね・・・」とあなたが話したとしても、相手がサーフィンを知らなくてはたとえ話にはならないということです。
ということは、誰しも理解している、あるいはわかっている、感じられるようなことがもっともたとえの道具としてはよいということになります。
つまり普遍的なものです。
そしてタロットはその普遍性を持つのです。
タロットは人間誰しもが持つ心のパターンや有り様といったものが表されているだけではなく、一番最初に記したように世界のあらゆる事象をも象徴しているのです。
ここにタロットが、「たとえ」としても優れていることがおわかりいただけたかと思います。

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