正しさの争いの意外な意味

私自身、タロットカードの「正義」との関係が深くありますので(これはパーソナルカードからというのもありますが、それ以外にもあります)、「正義」とはよく対話をしてみます。


対話と言っても実際に話をするわけではなく、カードを思うと「そう感じる」という別のコミュニケーション方法です。


話はそれますが、目に見えない何か、人ではないモノとのコミュニケーションというのは、普通に人が言葉で話をするという「コミュニケーション」とは異なると私は考えています。


そういう場合(言葉が響くこと)もあるかもしれませんが、だいたい次元とかフィールドが違うので、同じ言語的なものとはいかないのが当たり前ではないでしょうか。


実際の世界においても国や民族が違えば話す言語も異なるのですから。


それはさておき、「正義」の話に戻ります。


私たちは「自分が正しい」と結構な頻度で思うことがあります。それが人と対立する大きな原因であることもあります。


自分が正しい、相手は間違っているという前提で、感情的にも理論的にも相手から離れようとします。


とはいえ、よく考えてみると本当に相手から離れようとしているのでしょうか?


自分の正しさを証明しようとする時、相手と主義主張を述べ合ったり、文章でやり合ったり、とにかく相手と絡みますよね? そもそも相手があるからこそ争いになるわけです。


たとえ直接相手と対しなくても、自分が正しいことを愚痴のように自分を認めてくれる(と思っている)人に、争点になっている人とのことを話したり報告したりするはずです。


ということは、離れているのではなく、思いっきり近づいていることになります。感情的には近づきたくないのに、近づこうとしている、行動だけ見るとまるで矛盾しています。


人の世は結局、相手のことが好きな場合は当然としても、相手のことをよく思っていなくても、いやむしろ相手が間違っていると思えば思うほどその人と関わるようになる(特に心理的に関わる)仕組みになっているようです。


おかしいですよね。(笑)


だからといって、皆と仲良くしなければならないとか、争いはなくしましょうと言うのではありません。それは人としてこれだけたくさんの人がいる中で、普通は無理です。


ただここで言いたいのは、正しさを争うにおいても人は人と関わる仕組みになっていて、自分が激しく正しさを主張すればするほどその近づき度合いも激しさを増すということです。相手が嫌いでも。


つまりそれはタロットカードの「正義」でいう天秤であり、バランスです。


自分の偏った(自分が正しいと思いこみすぎる偏り)ものを修正するための装置や仕組みなのです。(争うことが全部が全部バランス回復のためとは言いませんが)


争う(剣)ことで中立(天秤)に自分が(正義の女神に)戻されます。ただこの争いでも中立にならない場合は、また別のバランス回復を図らされる何事かが起きる(自分で招く)でしょう。

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