先生と生徒 その1
何かの学びや教えを受ける時、他のフィールドでの社会的な立場や地位・年齢はどうあれ、一時的に教えるほうは先生となり、教えられるほうは生徒となります。
そして生徒としての側からすれば、先生にどう思われているのかということが気になることがあるものです。
しかし生徒も人ですが、先生も人間です。
教えられる側になると、ついつい錯覚をもってしまうのですが、自分より先生はえらい、人間として上だと見てしまいがちになり、極端に言えば「先生はすべてができた人」「人間として完璧」だと幻想を抱くことにもなりかねません。
しかし世の中に完璧な人などいません。
先生はあくまでその教えている分野においてあなたより知識や経験があるというだけで、人としての上下などはありません。
当然ながら先生も欠点も持ち合わせています。
そして何か一芸に秀でている人というのは、往々にして変わった人、変人である場合があります。
だからこそ通常の概念や考えを超えることもあるのですが、逆に常識はずれだったり、人としてのダークな部分を凝縮させたかのようなものを持っていることがあるのです。
何かを純粋にしようとすれば、混ざったものから分離を行うことになり、純粋な部分がはっきりしてくればしてくるほど濁った反対の要素も沈殿していきます。
この沈殿された部分の浄化も同時に行っていけばよいのですが、凝縮されている分だけドロドロに固まっており、なかなか通常よりも難しいことになります。
そしてこの部分に反応してしまった時、純化した面とは別の人格のような形となって現れることがあります。
これが具体的には、人間的な欲望として出現するケースが多いです。
よって先生と慕い尊敬していた人が急に人格が豹変したり、いつもすばらしいことをおっしゃっているのに金銭問題や人間関係で醜態に見えるものをさらけだしたりすることがあるのです。
先生の側の問題もありますが、生徒側の幻想、投影(自分の願望やネガティブな要素を相手自身として錯覚すること)もあります。先生の問題と見ていたものが、それは実は自分の問題だったということですね。
いずれにおいても、好かれすぎても嫌われすぎてもお互いのバランスを欠いた何かが投影されていると見ていいでしょう。
ただ両者とも人間ですので、感情が入り交じることは当たり前ですし、いつも両者とも聖人君子でいらるわけではないので、極端なこと以外は気にしないほうがいいです。
それでもいつもどこか客観視する自分を、生徒も先生も持っているとよいでしょう。
先生に好かれる嫌われる(感情)ということについては、次回の記事にて、もう少し踏み込んで解釈してみたいと思います。
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