タロットの凶札を考察 その1
マルセイユタロットの大アルカナ22枚は単体(カード一枚一枚)としても、また全体としても極めて優れた象徴性を有します。
そのとらえ方について私の講座では、特にふたつの考え方を呈示しています。最近では図面を使って説明しているので、よりわかりやすく理解できることでしょう。
それで実は22を用いる象徴概念としての見方は、ほかにもいくつかあるのですが、さらにもうひとつ紹介するとなれば、いわゆる「占い」的に「吉凶」として22枚を見る方法があります。
これについても今まで何回か語ってきたところですよね。
実際にはこの見方は弊害もあるので、お勧めはしていませんが、現実場面においては吉凶判断的見方もありえます。
ただそれはそう意識するレベルにおいてのことであり、誰もがカードと現実の吉凶が結びつくわけではないと私は考えています。
ただ、この吉凶レベルというのは今の私たちの思考レベルではよくある(普遍的)レベルになっているので、カードによって吉凶を感じたり、カードが吉凶自体を指し示したりするということは、多くの人が体験してしまうのです。
ちょっと難しい言い方になっていますが、要は私たちは吉凶で世の中を感じ、生きている人が多いということです。
その限りにおいては、カードによる吉凶占いはよく当たります。
それで、吉カードならばまあ問題はないわけですが、凶的なカードを引くと誰でも嫌ですし、怖いとさえ思うでしょう。(タロットが恐いという人は当たるということもありますが、こういう使い方しか知らないからです)
一般的には「塔」(神の家)とか「死神」(13)と呼ばれるカードが、その凶的な二大代表と言ってもよいかもしれません。
私はこの二枚に関しては、「恐れ」というものが共通としてあり、さらにそれは「畏れ」という字で表現されるものとつながっていると感じます。
単なる自分から出る不安という種類ではないもの、自分や人智を超えた恐るべきもの、怖さと恐れ(畏れ)が合わさった畏怖すべきものへの気持ちが込められていると思うのです。
それは今年の日本人、いや世界の人も感じたかもしれない自然災害などの予想もつかない怖ろしいもの、コントロールのできない恐いものといえるかもしれません。
かつて私たち日本人は特にこの畏れを大自然に感じていたと想像しています。そこに人を超えた存在、すなわち「神」を見たのでしょう。
また人や生物に必ず訪れる「死」も私たちが決してコントロールできないものです。老衰であれ、病であれ、事故であれ、その死を正確に予測し、思うように制御することは今もって不可能です。
ここに昔の人はやはり死について畏れを抱いてきたと考えられます。
再度繰り返しますが、「畏れ」というのは単に自分から出た不安ではないとお話しました。
何が違うのかといえば、怖さだけではなく、そこに敬意や崇拝の念が込められていたということでしょう。言い換えれば「畏敬の念」です。
なぜならばそこに「神」(の存在)を見ていたからです。
その証拠に先に挙げた二大凶的カード、「塔」は別名「神の家」であり、「死神」も「死」があるとはいえ「神」の名前がついています。
結局、この二枚は凶でありつつも、「神への畏れ」をもっとも表現しているカードと言えましょう。
ここまでわかってきたのなら、今度はこの二枚を単なる凶事との結びつきから変換していく作業も可能になってきます。
少し長くなりましたので、それは次回にて。
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