シンプルで複雑なストーリーを楽しむようになりましょう。

私はもともと物語を読んだり、自分で物語を創作したりするのが好きだったので、以前シナリオの勉強をしていたこともあります。


実はあるシナリオの通信教育も受けたことがあるのですが、その添削があまりにひどかったので、結局途中で辞めてしまいました。(笑)


あ、添削といっても自分で書いたものがひどく言われたからではないのですよ。逆です。結構ほめられたのですが、添削者自身が私の意図する仕掛けや掛詞、伏線に気がついていなかったので、がっくりしたわけです。


たぶん先生ではなく卒業生や上の生徒さんが添削していたのでしょうね。私も今となってはもっと謙虚に辛抱して学ぶべきだったなあ・・・とは反省はしています。若くて傲慢になっていたのですね。きっとたとえ生徒さんの添削だったとしても、ド素人の私よりわかっているところはあるはずで、私自身の学びには必ず役立っていたと思えるからです。


それはともかく、そんなわけで私は「ストーリー」というものに自然注目する体質となっています。


それで思うのですが、いわゆる単純なストーリーというのは、たいてい二元のわかりやすい争いになっています。例を挙げれば正義の味方が悪者を懲らしめるという勧善懲悪のストーリーです。


これはいわば低レベルの話です。誰が見てもいい人、誰が見ても悪い人の戦い・争いなんというものは何の面白みもありません。結果も予想できますし、そこに葛藤がひとつ(正しいか正しくないか)しかないからです。


ただ、よいところもあります。誰が見てもわかりやすい、理解しやすいという点で、時にはスカッとした気持ちにもなります。おそらく世界共通でわかってもらえる話となるでしょう。


ものすごくヒットする映画やストーリーの骨子は、実はこういう単純な二元の争いであることが多いのです。理由は先述した通り、誰が見てもわかりやすいからです。全体的だということですね。


二元といえば精神世界では陰陽とか、女性性・男性性とかふたつの相反するエネルギーを想起させます。


ひとつの完全・究極があるとすれば、そこからふたつに分かれた「見方」をすれば二元になります。ただし、これは二つに分かれたのではなく、あくまでひとつをふたつの性質でとらえるとそうなるということです。


実は陰の中にも陽があり、陽の中にも陰があって、二元は4つにも8つにも無限に分かれていきます。タロットにもある西洋の二元から四大元素の考え方もそれです。


この構造こそが世界の実体であると見るので、当然ながら単純な光と影、善と悪というようなくっきり二つに分かれるという発想にはなりえません。


それらが入り交じり、循環し、合一することに真の意味を見るのです。


従って、実体に近づくストーリー・物語というのは、全体としてシンプルにも見えながら個別では複雑でなければなりません。


善人のようでいて悪人、悪人のようでいて善人、悪をしているようで善にも見える、善のようでいてそれは悪のようにも見えるということを、難解なものではなく見せていくと魅力ある物語になります。


たとえていえば、物語全体としてはシンプルに「愛」をテーマにしており、しかながらその愛の表現は置かれている立場、環境、思い、信念、大きさなどによって人(登場人物)によってはまったく違うものに考えている、表されているというストーリーです。


ですから観客によっては悪にも善にもそれぞれの人物で見えてくるということになります。


こういう風にしてタロットも人生もとらえてくると、設定やシナリオが練られている物語が面白いように、あなたの見ている世界や人生もとても面白いものになってくるのです。


単純な二元で見ている限り、スカッとしたものを求める(つまりは快楽を求める)ことになるか、吉凶(いいか悪いか)で見る人生を生きることになります。


そういう人は「大衆」として操つりやすいように、自分で生きるのではなく、人からの刺激でコントロールされやすい人になって、まさに他人の人生を歩まされることになるのです。

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