自分は固いと思っている人へ。
何かと固く考えがちの傾向にある人はまじめで優しいとよく言われます。
実際にそのようなお方と接してみて、やはりそうだと感じることも多かったです。
しかしながら、その一方でとても利己的なところも眠っています。
それは人一倍、自分に対して関心があるからなのです。
とはいえ、誰でも自分に関心のない人なんていないと言ってもいいくらいです。
ただそのエネルギーの向け方があまりにも自己中心になっているのですね。
そのため、「人から自分はどのように見られているのか」ということになり、逆に自信がなくおどおどしてしまったり、「人からよく見られなければならない」と思いこんだりして、緊張とプレッシャーのあまり、ぎくしゃくした行動になるのです。
その根底には過剰なる自分への関心(言い換えれば自己尊重・賞賛の飢餓感)とそれによる縛りがあります。この点で利己的(自分に関心が寄せられすぎている)と言っているのです。
ですから勘違いしないでほしいのは、利己的と言ってもいわゆるわがままとは違うということで、それどころか反対にこのようなタイプの人は人に気遣い、争いを好まず、柔和な雰囲気さえある人が多いのです。
そして、こういう人に対しては「気楽になれ」とか、「自分に自信を持て」とかアドバイスされたりしても、実はそれができないから困っているわけで、逆にそれが強いプレッシャーになることがあります。
まあ、確かにマルセイユタロットのカードでいえば「愚者」に自分がなれば固さから脱せられるわけですが、それが難しいことは当の本人がよくわかっているわけです。
そこでまったく反対に、より自分に関心をさらに抱くようにするという方法があります。
ただしその関心は「気にする」というそれまでの自分に向ける関心の方法ではなく、「自己観察」や「自己洞察」と呼ばれる類のものにします。
カードでいえば「正義」や「吊るし」でしょう。
言ってみれば自分を客観視するわけですが、このことが容易ではないのは、自分で自分を観なければならないからです。
実は神様でもおそらく自分で自分の姿を直接見ることは無理でしょう。自分を見るには自分を映し出す「鏡」が必要なのです。
鏡として便利なのは、象徴として優れた機能を有するマルセイユタロットがお勧めです。もちろん他人を自分の象徴とすることもできますし、その他いろいろな象徴ツールや方法があります。
また考え方として、自分のふるまいや行動が、本当に目的のために純粋な気持ちで行っているかどうかを確認する姿勢を持つといいでしょう。
たとえば誰かのためと思って行動していても、それは「その誰かのために役に立つ自分を、人から評価してもらいたいためにやっている」と思っている部分はないかと探査してみるのです。
ただ上記でいえば、よほどの聖人君子、悟りを開いた人、利他の心で満たされている人以外は自分が評価されたいという思いでやっている心は必ずあると思います。
ですからそれは否定されるものではなく、当たり前に人としてある感情だと思えばいいでしょう。
しかしながら、そのバランスが大切です。
人のためなのか自分のためなのかの選択をするのではなく、過剰にどちらかに傾いていないか、特に自分の(評価を得る)ためとして極端になっていないかを確認することが大事だと言っているのです。
そうやってチェックしていくと自然に客観的な自己観察となり、自分の姿を冷静に見られるようになってきます。
となれば、「まあ、そういう自分もありだな」「人として当たり前だな、私」てな感じで、過度によく見てもらおうと思う気持ちが少なくなって楽になってきます。
気がつけばゆっくりとですが、固さもとれていくことでしょう。固いことも悪くはなくて、いいことでもあると認めるのも大事です。
今回お話した内容は、カードでいえば、「正義」から「節制」に至りつつ「愚者」にもなっていくというイメージです。
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