「答え」を自分は知っているのか?
タロットによって、なぜいろいろなこと(問いや課題についての事柄)がわかるのかということつにいては、考え方として諸説あり、また科学的に説明できることでもないので、シンプルには答えられないものです。
ただ大まかにわけて、「もともと自分が答えを知っていて、それをタロットが示してくれる」というものと、「タロット自体に神秘的な働きがある」というものがあるように思います。
この両方ともタロットリーディングにはあると考える人もいます。私も、これはケースバイケースではあるものの、両方が機能していると見ています。
それはともかく、今日は前者の考えである、「自分が質問や問題に対して、すでに答えを持っている」というスタンスについて考察してみたいと思います。
この立場(自分の中にあらゆるものの答えがあるとする考え)は魅力的です。
そうすると、人は大変な可能性をいつも秘めていることになりますし、すべて自分に起こることは対処可能だということになるからです。
とはいえ、何か問題が起きた時、ほとんどの人はすぐに解答を見つけることができず、悩んだり、苦しんだりします。
そうなると、本当に自分の中に答えはあるのだろうかという疑いが出ることもあるでしょう。人はもしかすると未熟で、未完成な存在なのではないかと。
だからこそ学びが必要てあり、自分より物事を知っている人や体験をしている人と交流し、教えを受けることが有効になると考えると、合理的な説明にもなってきます。
それは逆にいえば、元に戻って、「人は未熟なものであり、答えはいつも自分の中にあるとは限らない」という設定にたどり着きます。
では「人はもともと完全であり、どんな場合でも答えは自分が持っている」という設定は無理なのでしょうか?
この矛盾を解消するためには、ハンディや制約といった概念を取り入れると突破口が見えてきます。
つまり、人は元来、本当は完全な存在ではあるものの、あえてハンディをつけて生まれて来ているということです。それによって不自由さと不完全さをわざと味わっているのだという想像です。
なぜわざわざハンディや制約をつけなくてはならないのか。
一言でいえば、制約がないと楽しさや成長を実感することができないからでしょう。
ゲームに例えるのはちょっと軽薄なところもあるとは思いますが、ゲームにおいても、あまりにも自分の能力が最初から高すぎれば面白くなくなり、ハンディをつけたほうが楽しめることになります。
ハンディがあって実践すると意外な反応が期待できます。
たとえどうすればクリアーできるかがわかっていたとしても、自分が自由で完全ではないので、その場でのアイデアと反応が必要となり、その工夫と発揮するタイミングがリアルタイムでの楽しみや喜びになります。(ゲームや遊びで、ハンディをつけてやったことがある人にはわかると思います)
しかし残念ながらゲームと現実が違うのは、自分が完全であることさえ忘れている高度なハンディをつけられているということです。
ところが、また面白いことに、現実でもそれを思い出させるための様々な仕掛けやサポート道具、アイテムが至る所に配置されています。
しかもそれは時として、その世界においては「自分の完全さを思い出す道具」というように明らかな目印をつけて存在していないということです。
ただの生活道具であったり、遊び道具だったり、場合によっては「悪いもの」とこの世界では決めつけられているようなものであったりします。
それもまたハンディ、仕掛けであると言えるでしょう。
タロットもそうした道具のひとつだと考えられます。ですからこれをただのカードとするか、遊技道具としてしまうか、はたまた自分の完全さを思い出すためのツールとするのかは自分次第だということになります。
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