嫌なことでも動かなければならない時には。
近頃思うのは、感覚の大切さです。そして思考が過剰になるのは問題があるとも思います。
別に思考することや、頭で考えたり理屈を見い出したりすることは悪いことではありません。
しかしここで必要なのは、感覚との統合ということです。
表現を変えれば、「気が進まない、感じとしてあまりよくないものを、無理矢理理屈をこねて自身を説得しない」ことになります。
これは嫌なことを避けるという意味ではありません。それでは単なる逃避であり、成長の機会を失うことになります。
ここで言っているのは、感覚との統合を目指すこと、それが無理なららきちんと折り合いをつけるということです。
人間誰でも感情や感覚があり、それは人それぞれです。あることやある人のことを嫌だと思う時もあれば、好きだと感じることもあります。
それを止めることは普通は無理です。起こる感情を止めようとするほうが大変です。ですから感情や感覚は起こるままに任せます。
次に自分がしなければならない行動があるとします。社会で仕事をしていれば、不本意ながらもやらなくてはならないことは多々あります。普通に生活していてもそれは存在するでしょう。
ただこれを「仕方ない」とか「我慢するしかない」とかで、強制的に感情・感覚を抑え込んで動くと、基本的に心とのねじれが生じていますので、どこかに無理が出たりします。
「割り切って」と言われるように、少なくとも「お金のため」とか、「今はこういう関係を選択している」とかで無理矢理ではなく、素直になれる「割り切り」論理を構築しておくことです。
ここで「論理」という言葉が出たように、論理(思考)は実は人が穏やかに生きるためには、やはり重要なものです。
自分の今の感情や感覚が「嫌」とか「好きではない」というものであるという事実は、その事に対して、あるいはその人と行動してはならないという意味にはなりません。
ここが非常に重要です。好きなら行動しやすく、嫌なら行動しにくい、過ごしにくいのは当然ですが、感情が行動そのものを規定しているわけではないのです。
選択要因・因子として働いているに過ぎないのです。(ただし、あまりにも強い感情はほとんど行動を規定しているかのように錯覚せざるを得ないものとなります)
また、そもそも「その行動自体が嫌だ」という場合もあります。このケースでは確かに感情と行動の統合はやりにくいかもしれません。
こうした時は感情との統合前にもやむを得ず動かなくてはならないこともありますが、対策としては、なるべくなら統合できていない場合はまだ行動しないこと、そして統合できる自分になるために、新しい視点や考えを学び、持っておくことだと言えます。
いずれにしても、感情や感覚と自分の行動を統合させるには、第三の視点が必要になります。
この場合の第三の視点を獲得するには、自分が抱いた感情・感覚と同じものを、行動しなくてはならない対象から拾い出し、それを「論理的に」結びつけることでできます。
簡単にいうならば、嫌と思うものの中にもいいと思えるものを見つけて、そのために行動するのだと考えることでしょう。
嫌なことを気持ちいいことと解釈し直すことではありません。事実は事実として受け入れ、認めるということを示唆しています。
そのうえで、こういう感情なのだからこういう気持ちになるのは当然と思い、やるべきことに対して、その感情に近くなることを探すことになります。たとえば、そのことを行うことで実績ができて、自信と売り出しのできる喜びの自分を見いだすというものです。
難しいのですが、それが第三の視点や自分のレベルを上げることにつながります。上から目線とは異なることにも注意してください。
いきなりレベルを上げることはできません。図形でいえば、平行線としてリンクをつなげることから始まるのです。(ここでは感情のリンクの発見のこと)
そうすると、突如としてピカッと光るがごとく、二本の直線の上の三角形の頂点が見えてきます。マルセイユタロットの「女帝」と「恋人」はこのことを表しています。
それでも統合しにくいものは、もともと統合する必要もないものかもしれません。つまりはそれは本当の意味で止めたほうがよいのです。
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