開運法、願望実現を試みる人
占いやスピリチュアルという分野を見ていますと、開運ということにテーマを置いているものが多い気がします。
もちろん自分の運がよくなることには昔からたくさんの人が関心を寄せていることであり、開運してよい生活を送って行きたいと願うことは、人として当たり前の感覚と言ってもよいでしょう。
一言でいえば、皆、幸せになりたいのです。
ところが、開運による幸せばかりを追求していくと、落とし穴にはまることがあります。
それはひとつには、開運マニアみたいになってしまって、目的と手段が入れ違ってしまうような場合です。
たとえば方位にこだわりすぎて好きな場所にも行けない、風水グッズを置いていないと夜も眠れない、旅先では連れの都合も無視して、とにかくパワースポットに行かないと気が済まない、開運グッズを購入し過ぎて気がつくとお金をかなり失っていた・・・など、これは幸せになるための開運方法が逆に自分を縛ってしまうことになっています。
まあ、こうしたことは実はそう大きな問題ではありません。(それなりに問題ではありますが、やがて自分で気がつくためです)
本当は開運(の方法)を行うことによって、ますます真理の探究からはずれ、自分を無知と奴隷的な存在にしてしまうことです。その中間段階(弊害)として、エゴの増大と二元的思考の拡大があります。
つまり、簡単にいえば「運をよくする」ということは、「自分がよくなりたい」という発想につながり、自分や家族、自分に関係している人さえ幸せになればよいという狭い世界になりかねないのです。
それから、たとえあることで開運ができたとしても、その理由の検証や追求をすることなく、単なるラッキーだとして、「運の良さ」を享受するのみという生活も危険です。
「何かわからないけれど、人が言うからやってみたら運がよくなった」「理由は不明だけど、試してみたら願いが叶った」というようなことは、個人にとって結構なことですが、結果は別として、それに何の意味があるのかということです。
運がよくなって、いい生活ができて、幸せになれば、なんだっていいじゃないの、とあなたは思うかもしれません。
確かに今生のあなたの人生、特に目に見える範囲内での生活にとってはよいかもしれません。
「人生、あれをやって理由はわからないけどラッキーしたよ」「なんだかわからないけど、とにかく運がよかったよ私、いい人生だったわ・・・」と満足して一生終えるのも、ある意味幸せです。
それでいいという人、とにかくラッキーだったらOKという人は価値観が違いますので、これ以上、この記事をお読みにならないことをお勧めします。
しかしここまで読んできて、理由のわからないラッキー人生・開運人生に何か違和感を覚えた方もいらっしゃるでしょう。
そう、ただ運の良し悪しを何も検証せずに利用だけして、一喜一憂している人は、マトリックスの世界に欺されているようなものなのです。
マルセイユタロットでは、運を象徴するカードに「運命の輪」がありますが、その「運命の輪」の中で、上へ行ったり下へ行ったりして右往左往しているのが輪の中の動物たちです。
開運法を試し、「運がよくなってラッキーだった」とそのまま喜んだり、「うまくいかなかったよ」と落ち込んでいるのは、この「運命の輪」の中の動物たちに該当します。
すなわち、輪の中にいる限り、本当の運の活用とは言い難いのです。輪から脱却してこそ、本当の自由、真の幸せと呼ばれる段階に近づくのだとマルセイユタロットは答えます。
「私は占いの理論を学んでいますし、迷信的に開運法を試しているのではありませんよ」とおっしゃる方もいるでしょう。
事実その通りだとすればすばらしいことですが、多くの方は実は中間段階での占いの活用に留まっているケースが見受けられます。
それは、たとえば今年は拡大や発展の流れの運気になっているので、事業を大きくしたり、結婚に向けて進展していくことはよいというような判断的な使い方です。(これは単純化したたとえですので、本当はもっと複雑になりますが、ここでいう中間段階はそれも指します)
ただこの中間段階にも意味があり、そこに到達するだけでも実は大変なことです。
一見、これもよい開運法・活用法であるとは考えられますが、本来の目的にはまだ遠く、だからこそ中間段階だと言っているのです。
例えば、占星術ならば星の動きとエネルギーを知り、それらを自己(や組織・社会)に活用することが確かにひとつの目的の場合もありますが、本来は自己の解放と救済(それが全体にもつながる)のためにあると考えられるものです。(これは一応、私の考えということで断っておきます)
開運的なものはあくまで、その段階でのひとつの利用の仕方や結果でしかありません。これに満足しきっていたら、その先はないと言ってもよいでしょう。
そして占星術であれ、カバラーであれ、タロットであれ、極端なエゴでの開運や願望実現の使用は、必ず宇宙バランスとしての反転作用を伴い、しかるべき段階に達していないと、あとでとんだことにもなりかねません。
実はまだ「運命の輪」の中で、迷信的な利用で一喜一憂しているほうが安全かもしれません。そういう意味では、開運法をレジャー的に楽しむのもありでしょう。
ただ人間や宇宙、深く自己の探求と発展を望む場合は、開運法で満足することなく、その理由や検証を試み、うのみにすべて信じ込んでしまうことの危険性と愚かさに気がつくようにしないといけません。
人によってはその過程では、一般的に不幸やトラブルと思えることを経験することになるでしょう。霊的な成長とは、開運ばかりで運の良さを目指す方向とはまるで違うからです。
しかしながら、それも冷徹な目と大きな次元から見れば、すべて恩恵であることに気がついてきます。その繰り返しによることが、自己の神性の発露になり、霊的な向上の道だとも言えます。
神性とは、まさに内と外の神なる性質に気がつくことであり、それは運の良し悪しという次元やレベルではとらえられない大きく深いものなのです。
言ってみれば、「悪魔」さえも「神の表現のひとつ」だと思うことに例えられるでしょう。
ただ、開運や運の良さ、そこからの幸せを求めることが決して悪いわけではなく、段階的には必要なこともあるということについて、次回でお話したいと思います。(別の機会になるかもしれません)
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