「世界」の幸せと「悪魔」の幸せ

マルセイユタロットは、どのカード同士でもペアとして見ていくと、いろいろな気づきが起こるような仕組みになっています。そのことはここでも何度か実例をもって書いていますよね。


今日もその類の話になります。


世界」のカードと「悪魔」のカードには、一見ほとんど関係ないように見えて、象徴の絵柄の意味を知ると、その関連性を発見することができます。


それはひとつやふたつではないのですが、今回取り上げるのは人の「満足」と「幸せ」に関係することです。


「悪魔」の幸せと、「世界」の幸せではどちらが上かといえば、一般的な想像と同じく、それはやはり「世界」の幸せでしょう。


ですが、マルセイユタロットのひとつの考え方では、すべては「世界」のカードに至る過程や表現としてとらえるものがあります。


この見方に立てば、「悪魔」の幸せは「世界」の幸せの前段階になるので、確かに劣っていることにはなるのかもしれませんが、逆にいえば、「世界」の幸せに至るためには「悪魔」の幸せを経験(理解)しなくてはならないという意味にもなりえます。


「世界」の幸せが究極で完全なものだとすれば、それは神の幸せ(の境地)と言ってよいものかもしれません。


では、「悪魔」の幸せとは何でしょうか? 


マルセイユタロットの解釈やリーディングにおいて、わからなくなったり、迷ったりした時は基本の「絵柄」に立ち返ることです。


ここで両者のカードの絵柄を比べてみますと、「悪魔」は悪魔を中心とした人物に、二人の小さな人間らしき人たちがつながれて、笑いあっているような図柄になっています。


一方の「世界」は、周囲を4つの生物に囲まれ、真ん中の人物が軽やかに踊っているような姿で描かれています。


形でいうと、「悪魔」は三角形、「世界」は四角形と円が浮かんできます。


ここから見れば、「悪魔」はまさに悪魔が中心で、悪魔の幸せこそが大事だと感じられます。つながれている二人の人物の幸せと、悪魔の幸せはおそらく異なるものです。(悪魔が舌を出していることに注目)


逆に「世界」は内と外、周囲の自分との幸せが一致して、さらに拡大しているイメージがあります。


こう書くと、やっぱり「悪魔」は不完全で「悪」なのだと思う人もいるかもしれませんが、先にも言いましたように、「悪魔」が「世界」へのステップだと考えれば、まずは「悪魔」的な幸せ感・満足感を人は得る必要があるとも言えます。


一見エゴを満たしているとも思える「悪魔」の幸せと満足ですが、悪魔と一緒の二人の人物たちもやはり満足しているように描かれていることが重要で、人を幸せするには、なにはともあれ、自分の満足・充足を感じることが大切だと示唆しているように見えます。


そう思うと、本当は自分は幸せではないのに、無理矢理納得して演じたり、人にも自分の価値観を押しつけようとしたり、共有させようとしたりしていないかということが思えてきます。



自分がまず幸せになること、自分を満たすことを目指し、その姿でほかの人たちも喜びを感じるというイメージが「悪魔」の図柄から浮かんで来るのです。


それでもまだ「悪魔」がいわゆる悪いイメージの悪魔に見える人は、こう考えるとよいです。実は「悪魔」の中にも「世界」(のカード)があり、「悪魔」のレベルで「世界」の象徴を実現していくことができるのだと。


それは「世界」そのものの象徴とは異なるけれども、次元や表現を変えた「世界」にほかならず、それが「悪魔」(「悪魔」だけに限りませんが)のカードの段階レベルで成すことが求められているということです。


簡単にいえば、世界平和を願う前に、自分の身近な範囲の平和に向かってできることから始めるということでしょうか。


エゴを捨てるということばかり言われますが、「悪魔」の二重の意味は、エゴを満足させる仕掛け(フリ)をして、実はエゴを欺く(「悪魔」には欺す、欺瞞的な意味もあります)ようにエゴを浄化するということも考えられるのです。


ちょうど、仮面にエネルギーを注入すること(仮面を意識すること)で、仮面が仮面として独立し、だからこそはがれやすくなるというのと似ています。


「自分を愛する」というと難しく高尚になってきますが、その低次の段階では、エゴに近くなってくることもあるのです。でもそれが自分を(他者も)愛するという高次のことにもつながっています。


この低次と高次の表現方法の違いと、高低を貫いている同じ原理・柱を見破ることが非常に重要です。それはマルセイユタロットのような高度な象徴道具を手に入れるとわかってくるようになります。

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