頭の理解と心の理解 梯子の表現
マルセイユタロットでは梯子の表現が何枚かのカードでよく出てきます。
また、ある法則に基づく複数のカード群が、まさに梯子のような階梯(段階)を示唆していることもあります。
それを見ていて感じたことのひとつを今日は書きたいと思います。
ところで物事を本当に理解したというのは、どういう状態だと思いますか?
多くの人が勘違いしているのは、「頭(思考)でわかった」ということが理解だと思っていることです。
ですが、最近は頭の理解ではなく、心と言いますか、まさに「腑に落ちる」と表現できるような、実感としての理解が大事だと話されることも多くなってきましたので、頭の理解ではまだ中途半端なのだとわかっている方もたくさんいらっしゃるでしょう。
となれば、結局は心や体験で理解しないといけないのか・・・と疑問がわきます。
たとえばこちらは必死で勉強しているのに、ある人が突然、「ああ、こういうことなのね、わかったわ」とふいに「真から理解した」ような言葉を口にしたとしましょう。
自分は一生懸命努力しているのに、さほど熱を入れているようにも見えない他人が、急に先に悟ってしまったようなことに対して、あなたは嫉妬や自分自身のふがいなさを思うことがあるかもしれません。
そこまでではないにしても、頭の理解を飛び越えて、ダイレクトに(直感的に)物事の本質に到達してしまった人に、何か自分にイライラしてしまったという経験はあるのではないでしょうか。
これには才能の違い、人生においてのほかの物事の経験の違い、感性の鋭さの違い、さらにはもし過去生を想定するとすれば、その過去生での経験値による相違も含まれることがあります。
ですから頭の理解の努力(知識を入れること)はほとんどせず、天才的に真の理解に早くたどるつく人がいるのです。
一方、思考で理解することの問題としては、結局頭で考えようとすればするほど、これまでの自分の思考の枠でとらえようとしますので、まるで思考が堂々巡りしているかのようになり、特に新しい物事の本質的な理解には行き着きにくい場合があります。
そうなれば、「直感こそすべて」「直感を磨くことが第一」だと思われがちですが、確かに思考の罠にはまらないようにするためには直感力を重視することは大切ですが、過度の直感主義も問題です。
まず直感を精査するものがないということです。
「感じ」はあくまで「感じ方」ですから、それがヒットしているかどうか(正誤ではなく、フォーカスするものに対して適切な情報にヒットしているかという意味)を判断するのは難しいところです。
さらには感度にも体調や環境によるブレがありますから、精度の面では問題がないとは言えません。
さて、ここでようやく梯子のテーマが出てきます。
いきなり結論から言えば、頭で考えたり学んだりすることは、物事の真の理解のための梯子なのだということです。
知識があるからこそ、そこに梯子がかかるのです。つまり梯子の一本一本があなたの学んできた頭の知識と思考です。梯子はまた石段と言ってもいいでしょう。
これがあるので、探求の方向性(梯子の上段方向)にはブレがなく、しかも梯子として登り方がわかっていますから、一定の段階までの到達は早く、一からやり直しということもありません。登った分だけは何度も簡単に行けるということです。
これに対して、直感のみに頼っていると、梯子なしでいきなりジャンプして上がるようなものなので、運良く天(真の理解であるゴール)から下がっているひも(実はこういうものもあると仮定します)がつかめればいいのですが、別のところから下がっている偽物のひもをつかんでしまうことがありますし、ひも自体をつかみ損ねることもあります。
もちろん直感も修練によって、いわば「直感の梯子化」ができ、それを登っていくことで安全さと確実さを増すことはできます。
いずれにしても、頭の理解、知識での理解も悪いわけではないのです。それは真の理解に到達するための梯子(ステップ)なのです。
梯子の頂上があまりに遠大な場合、時には挫折しそうになるかもしれませんが、ある地点まで登れば、必ず天からのひもが見えてきます。
実は梯子の途中でも、そのひもは見えることがあるのですが、慌ててつかむのではなく、梯子を登りながらひももつかんでいくとよいのです。
これが頭と心、思考と直感を融合していく方法で、マルセイユタロットの学習自体がそれに近いものです。
そして融合したものが「直観」と呼ばれるものです。
直観に至れば、その物事の本質は瞬時に理解することができます。
マルセイユタロットをやっていくとわかってくるのですが、物事は際限なく分かれているようで、その本質は極めてシンプルなので、それさえつかめれば、すべてに応用は可能となります。
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