人との関係 その別離について
マルセイユタロットにも孤独を表現している絵柄(人物)と、複数の人や動物たちと一緒にいる絵柄のカードがあります。
タロットは象徴ですから、私たちの人生における一コマを表しているともとれますし、一人一人に訪れる心模様や心象風景であると見ることもできます。
このように、人は生きている限り、環境的(実際的)・精神的(気持ち)に、他人と交流している時間もあれば、一人でいたり、孤独であったりする時を経験します。
実際的・精神的と言ったのは、見た目はたくさんの人に囲まれていても、心の中は寂しい孤独な状態であることもありますし、逆に一人でいてもまったく寂しくなく、充実した気持ちになっている人もいるからです。
このように考えますと、必ずしも友達がたくさんいたり、多くの人と交流したりすることが幸せだとは言えないかもしれません。
要は、どんな時でも充実感や幸せ感を覚えるか、穏やかな心でいられれば、外的なものには振り回されないということです。
とはいえ、やはり人間である限り、迷いも悩みも起きます。特に人間関係は、その大きな要因でもあります。
私たちはある程度の意志をもって人との交際をコントロールすることはできても、完全には出会いと別れを支配することはできません。
むしろ人間の交流は偶発的であることも多いと言えます。
そういえば、「人」と「間」と書いて「人間」となりますから、人と人との間には深いものがあり、交流があってこそ人間だと漢字は表しているのかもしれません。
ともかく、私たちは人と知り合い、つきあい、そしてやがて別れを経験します。
恋愛や結婚のパートナー、家族、学校や職場などで知り合った人、趣味や共通の嗜好が縁で始まった友人、学びの過程で交流が始まった人・・・まさにいろいろな機会を通じてつきあいの深くなる人が出ます。
そして私たちが恐れるのは、その人(たち)との別離です。
別離には、気持ちのすれ違いや情熱の衰退、価値観の変化、環境要因などで、生きている間での別れもあれば、相手か自分が亡くなることによる別離もあります。
別離には悲しみがありますが、それはむしろ普通で当然の感情だと思います。
問題は先述したように、いつか来る別離を恐れている場合です。これはつきつめてしまえば、自分勝手な状態になっている時に起こります。
相手がいなくなると、自分の楽しみや喜びがなくなると思っているのであり、それは相手に、自分を楽しませる「ある役割」を要求していることにもなります。
もちろん反対に相手もこちらにしているのですが、その双方の欲求が一致している時は関係はうまく行くものの、やがてそれを演じることが、どちらか(あるいは両方)ができなくなってくると関係は崩れていきます。
別にお互い無理して演じているのではなく、暗黙の無意識の了解のような感じで、そうなるように自然にふるまっていますので、演じることに疲れて別れるわけではありません。
では何かと言えば、一言でいえば「表現方法のズレ」が生じるということです。
たとえば趣味の手芸を通じて知り合い、お互いが手芸を中心として語り合い、作品を作り合うよい友人関係にあったとしても、どちらかが手芸を披露しあうことの表現に飽き足り、関心が別に移ったりすれば、両者の関係はピークの頃よりも冷めた状態に移行するでしょう。
この場合は「手芸」という趣味の表現が接着剤のようになっていたと言えますが、このケースでも、当初は手芸友人の関係ではあっても、両者が手芸を超えて、別の何かをお互いに表現しあうことで満足する関係へと変わっていた時は、永続したよい関係が続くと予想されます。
その「何か」とは、人生におけるほかの共通の関心事ということもありますし、前述のお互いの役割がはまっている時であったりします。
役割の場合は、質表現のこともありますので、エネルギー的に陰陽の関係や、インプット・アウトプット、話す役・聞き役、刺激を与える者・受け取る者というような状態のこともあります。
仲の良い誰かを失う(別れる)ことはあっても、実は真の意味で悲しむことはありません。
その人との思い出や、その人自体を何かに変えることはできないのですが、その人と同じ表現の人、あるいは自分が気付いていなかった表現をしている人と縁ができるなどのことで、失われているのではなく、人や物事で別の表現として移行したのだと考えることができるからです。
そして、さらに究極まで思考していくと、友人や知人も自分(の表現)であったことに気がついてきます。
構造的にいえば、自分の中にある多様性(完全性)の表現を、他人を通して行っていたということになります。特に親しい(親しかった)人ほど、それは顕著だと言えます。
ですから、マルセイユタロットでいう「隠者」の段階まで来ますと、人とのつきあいは無理して行うこともなく、自分の中でたくさんの友人たちが住んでいる状態となり、外から見ればそれは孤独ではあっても、内側ではとてもにぎやかでもあると考えられるのです。
ただし、マルセイユタロットの大アルカナの段階でも示されているように、これを最初からただ一人で行うことは難しく、そのために最初はたくさんの人と交流したり、特定の人と深い関係になったりする必要があるのです。
ということで、親しい人との別れがある時は、自分が別の次元に移行(上昇もしくは下降)している時でもあるのです。
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