ハンディのある世界による発展性
能力開発法のひとつに、あえてハンディを背負うというものがあります。
たとえば、利き手を使わず、食事や作業を行うといったことや、目隠しをして歩いてみるとかです。
アニメとかスポ根物語等でよくある、「負荷を極端にかけて練習する」みたいなこともそうですね。
これには、ふたつの能力の発展が予想できます。
ひとつはハンディを背負うことで、普段使いの能力がさらに鍛え上げられること、そしてもうひとつはハンディにより、別の能力が開花することです。
前者は、たとえば鎧を着て日常生活(笑)したあと、それを脱いで見たらすばやい動きができるようになったとか、重たいものを持ち上げられるようになったとかいうものです。
後者は、例にすると、視力にハンディがある場合、聴力やほかの感覚によって代替され、ある部分が通常を超えた能力になるというようなものです。
いずれにしても、ハンデイや負荷が、これまでを超えた状態に移行させるという点では同じです。
これは肉体的・物理的な面でなく、精神的なことにも当てはまる場合があります。
いわゆる人生で起こる様々な悩み事・問題というものが、これに当たるかもしれません。
「思うようにいかないこと」それ自体が、人生のフィールドにおける成長装置ということです。
逆に考えれば、人生はそのようにできており、私たちを成長させるために障害やハンディ(と思えるもの、問題)が存在していくのだと見ることができます。
それでは、「すべてがうまくいく」と望んではダメなのかといえば、それもまた違うと言えます。
ハンディはあくまで道具やツールであり、目的は私たちが成長することです。
この目的というのが結局、「すべてうまく行く」「幸せ」「完全」と表現されるものだと思えます。であるならば、それを望むことは悪いわけではないのです。
これは段階やステップ・過程の話であり、そしてここがもっとも重要なことですが、その過程をいかに楽しむかということが試されていると言えます。
実はもともと私たちは「幸せ」であり、「完全」であり、「すべてうまくいく」存在であるとスピリチュアルな世界では言います。(私の考えるマルセイユタロットの世界観も同様です)
そう、すでに目的は最初から達しているのですが、あえてそれを忘却し、ハンディをつけことで、どこまで回復できるかをゲームしているのだと表すことができます。
従って、次第に段階別に問題(ハンディ)を克服し、クリアーにしていく順番にもなりますし、ゲームと同じく、それ自体が楽しいこと(遊び)になります。
ところでゲームに熱中する子供に対して親が注意をしますが、この理由のひとつには、ゲームは現実世界ではないと親が理解していることにあります。
つまりいくらゲームで高得点し、難しいものをクリアーしても、学校の試験という現実での高得点・クリアーを獲得しなれば意味がない、価値がないと親は思っているからです。
もしゲームの世界も現実の世界とがリンクしていれば、ゲームに熱中することは健康問題などでは注意するかもですが、ゲームをすること自体を咎めることはまずないでしょう。
何が言いたいのかと言えば、ゲームが最初からゲームだと知っていて、しかもそれが自分の思う現実・リアリティとは何の関係もなく、無価値だと思ってしまうと、ゲームを楽しむとごろか、興味さえ失ってしまうということです。
これと同じように、私たちが最初から完全であり、人生(のフィールド)がゲームだと思って参加してしまえば、これほどつまらないものはありません。ドキドキもワクワクもないでしょう。
それゆえ、おそらく私たちはほとんど忘れてこの世界のゲームに参加していると考えられます。
まれにそれを少し知る人などいたり、ゲームルールを管理したり、説明したりするような門番の存在もいるのが面白いところです。
私たちは、自分の人生を価値あるものにしたいと思い、生きた証を求めて、人生のイベントの意味を自他ともに求めようとしますが、これまで述べてきたように、究極的には起こるイベントには意味がなく、いいも悪いもないと想定されます。
それらはすべて、私たちの完全を思い出すゲームにおける演出道具だということです。
だからと言って、生きること、起こった出来事、経験したことに意味がないと言っているのではありません。むしろ大いに意味があるのです。矛盾しているようですが、深く考えていくとわかってきます。
このような、右のようでいて左でもあり、上のようでいて下でもあるというような矛盾(を統合する)考察こそがマルセイユタロットの世界でもあり、私たちの宇宙を知る手がかりでもあると私は考えています。
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